教育福島0115号(1986年(S61)10月)-023page

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随想 ずいそう

 

厳しさと優しさ

 

厳しさと優しさ

松本春帆

 

在中学生や高校生の親であり、社会の第一線で活躍している者たちである。

 

過日、丁度三十年前に中学校を卒業した教え子の同級会があった。話しに花が咲き 友だちにいじめられたこと(今のように陰湿でない)や先生に一対一でやってみろと相撲を取らされたことなど、その思い出は三十年前にさかのぼって、いつ果てるともなく続いた。そして彼等は現在中学生や高校生の親であり、社会の第一線で活躍している者たちである。

今、家庭や社会の教育力が問われている時、三十年前の彼等との取り組みを思い、未熟な若年教師で満足な指導もできなかったなと、自責の念にかられている。反面、若さをぶっつけ、ともに汗を流し、仲間を大切にしてきたように思われてならない。ところで現実には、多くの学校で様々な問題をかかえて苦しんでいるし、思いやりなどの暖かさに欠ける面が強く出ているのは誠に残念である。

こうした問題の要因については、臨教審の第二次答申の中でも最初に、「子どもたちの心の荒廃をもたらした原因と責任は、その最も根深いところで大人社会全体にある」と述べているところであるが、誠に同感であり、私たち大人一人一人が、自らを厳しくみつめてみる必要がある。

例えば今の子どもは自己中心的であると言われるが、大人の中にもよくまあ、自分に都合のよい理屈を言うもんだなあと驚くことさえある。二、三年前の毎日新聞の余録の欄に、藤本義一氏の言葉として、「日本人の心のゆとりのなさは、人の後ろ指を指すのは平気、自分の後ろ指を指されるのは嫌という後ろ指志向が原因である」ということがのっていたが、大人の勝手さをあらわしたものであろう。

また「本音で議論しよう」「本音を聞きたい」とよく言うが、とかく本音は建前のまえに一蹴されることが多い。本音や建前の意味づけは別として、土居健郎氏は「建前と本音がともに作動しないと、人間関係がギクシャクしたものになる」と言っているように本音を踏まえた建前で論じてほしいと思う。

そして臨教審答申にもある、教育環境の人間化の観点に立った教育諸条件の整備とともに、大人自身が正義を愛し不正を憎む強い心を持つと同時に、人間が人間である限り、誤りと弱さがあることを自覚し、正義の名の下に人間の思いやりや優しさを切り捨てることがないようにしなければならないと思っている。

 

本校では五十五年以来研究の一端を自主公開しているが、その理由の一つは、人間は弱さを持っているから、多くの人々から厳しい批判をいただかないと、適当なところで妥協し、もう一歩の研究にふみこめないのを戒めたことにある。これからも職員一同謙虚にそして厳しく、お互いに戒めあい、そして痛みを分かち合いながら、 「生き生きと学習にとり組む生徒」の育成をめざし、同行の途を歩んでいきたいと思っている。(白河市立白河第二中学校長)

 

遊びの中で

 

遊びの中で

菅野久遺子

 

「先生、おはようございます」

 

「先生、おはようございます」

「おはよう、元気がいいね」

せっせと登園してくる子どもたちの姿からは、

「きょうこそは−」

「あれもやってみたいな。これもやってみたいな」という意気ごみが一人一人の胸の中に秘められているのを感じます。今日も新しい一日がスタートしょうとしています。

「先生、もう裸になったよ」

「魔法の手袋もかけたよ」という子どもたちの声から、友だちと仲よく遊ぶんだという響きが伝わってきます。

みんなで魔法の手袋(乾布摩擦のための軍手)をかけ、友だちの背中を一、二、三、……と力をこめてこする元気な声、そのときの子ども同士の対話は

 

 

 


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