教育福島0115号(1986年(S61)10月)-024page

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明るく生き生きしています。

「痛くないかな」

「何して遊ぶ?」

既に裸の生活を始めて半年になろうとしています。このごろでは、この時間帯に友だちとどんな遊びをするか、今日の遊びの目標が決められていくのをみることができるようになりました。

「きのう、できながつた○○が今日はできっかな一」

「がんばってやればできるよ」と子ども同士が励まし合いながらの遊びが始まります。

「先生!見て!見て!できたよ!」という子どもの大きな声。近くにいた友だちも寄ってきます。

「できなかったのに、できるようになったの」

「○○ちゃんすごいね、がんばったね」

友だちのできたことをわが事のように喜び合う子どもたちの顔はニコニコし、自然に拍手がわきおこり、本人はピースの指サインをします。これが本当の喜びであることを、子どもの遊びの中で教えられることが多いのです。これが子どもの自主・自律の精神の芽生えというものなのでしょう。

 

本園では、野外の遊具や併設の小学校の体育施設を使って自由遊びの時間を設定しています。小学校の児童が休み時間に鉄棒で逆上がりをしたり、登り棒に登っているのをみて、ほとんどの子どもがまねしてできるようになったのには驚かされます。習うことはなくとも、遊びの中からひとり覚えをしていくのです。小さな腕からたくましさが感じられます。

「うちの子はかぜをひかなくなりました」

「朝食もよく食べるようになりました」

という母親の声が聞かれます。

遊びを通して、健康でたくましい子ども、友だちに対して思いやりのある子ども、自分の痛さを知り友だちの痛さもわかる心のあたたかい子どもを育てていきたいものと思うのです。

(伊達町立伏黒幼稚園教諭)

 

はだかで元気に登り棒で遊ぶ園児たち

はだかで元気に登り棒で遊ぶ園児たち

 

懐古

山本博章

 

になろうとしていた内郷高校に昭和三十九年四月、新採用として赴任した。

 

茶褐色にそびえるズリ山。朝夕、煙たなびく炭住。徐々にではあるが不況が近づきつつある常磐炭鉱。それでも生徒数は増えつづけ、四学級から十学級になろうとしていた内郷高校に昭和三十九年四月、新採用として赴任した。

当時の内高は今の内郷支所のある国道六号線ぞいに小さな木造校舎と猫のひたいほどの校庭をもち、現在の内町駒谷地区に新校舎を建築中であった。もちろん体育館もグラウンドもなく、生徒たちの楽しみである体育の授業も、ゴム長靴をはいてのサッカーとズリ山の頂上までのマラソン、あとは校庭作りの作業が主だった。この作業はクラスごとに割当てられた場所を畑を耕やすように掘りおこし、ふるいにかけ、モッコをかついでの大変な労働であった。大雨が降ると、もともと低い土地のため校庭いっぱいが湖となり、小魚が泳いでいるような状態で、水が引くとまた作業のやりなおしという非常に根気のいる作業だった。それでも生徒たちは、“自分たちの学校を作るんだ。校庭を作るんだ”という意識が強く。文句も言わず、積極的に作業に取り組んでいた。

そんななか.で教師一年生の私には、週二回とはいえ、「まともな授業をやってこい」と旧校舎での授業を当ててくれた先輩諸先生方のはからいが大変うれしく、楽しくも夢中ですごした一年間であった。

翌年初めてのクラス担任をおおせつかり、新入生男子五十三名の兄貴分として新米担任のスタート。ほとんどが常磐、内郷地区の炭鉱関係の子弟だったが、おしよせる炭鉱不況の波にもめげず元気いっぱいの子どもたちだった。

二年生から本校では普通科ではあるが、「なにか特色のある学校を」ということで、それぞれの進路によりコースの選択をし、クラスを決定することになっていた。進学・体育・音楽・普通(就職)の四コースである。

私のクラス、体育コースは個性豊かな四十三名の“仲間たち”で構成され、全員が運動部員、ほとんどの部のキャプテンが集まり、そのためクラスのまとまりは最高で、他にはみられない一種独特の雰囲気をもった、楽しいにぎやかなクラスだった。教室全体が一つの運動部の部室のような感じで、あの汗の臭いのすごかったこと、今では懐

 

 

 


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