教育福島0115号(1986年(S61)10月)-029page
なったことは、言うまでもない。しかし自分から話すことはなかった。
それからは放課後残しておいて、家の人のことなどをできるだけ聞き出そうとした。ある日「先生Y子ちゃんは先生の財布から、千円札を一枚とったよ」と話したのには驚いた。私はとられたことより、やはりこの子は話せるんだと確信が持てたことの方が嬉しかった。お金をとったY子は、M子が話さないのを知って、目の前でとったのであった。この事件も後で解決したが、その時の嬉しさは、今でも昨日のことのように思い出される。M子も今では社会人三年生、元気で職場でがんばっている。
(船引町立船引小学校教諭)
三年生を担任して
円谷四郎
あこがれの教員生活に希望と不安を抱きながら、桜の木で沿道をうめられた長い坂道を登ると、鉄筋三階建ての大きな校舎が目に入った。「おはようございます。先生、三年一組の担任ですか」と不安を吹き飛ばすような女子生徒の明るい声が足を止めた。校門前には、生徒会役員数人が校旗を手に、私が来るのを待っていて、 「ようこそ古殿中学校へ」と元気に迎えられたことが、強く印象に残っている。
当校は普通学級九、特殊学級一、生徒数三百三十二名。古殿町の高台にあり、鮫川の清流を見おろし、前方に鎌倉岳を一望できる統合中として十一年目を迎えた学校である。一時期「卓球古殿」と異名をとった卓球部を筆頭に、多くの部が毎日練習に励んでいる。
四月に、三年一組の担任として、三十八名の子どもと出会った。このクラスは毎年担任が変わり、離任の寂しさと重なって、生徒は戸惑いを感じていた。父兄も進路決定の年を迎え、期待と不安を隠せなかったと思う。
最初に、私は、一人一人の名前を、写真を見て覚えた。M君、Tさんと顔を見て呼ぶと、「なぜ俺の名前を」とびっくりした表情をみせながらも、笑顔を返してくれた。
次に、裸で話し合えるようにということで、子どもに自分をさらけ出し、厳しい社会生活、苦しくも楽しかった講師生活、人間関係の難しさなど、自分の体験を話した。そして、みんなの進路希望を必ず達成してやると約束した。緊張していた顔がぱっと明るくなった。また、中体連を目標に友情を深めようと言ったら、「青春が好きですね」と大笑いだった。
この出会いを大切に、中学校生活で最も思い出に残る学年を無事終了させ、一人一人の進路選択を適切に援助し、卒業させることが自分に課せられた使命と思って取り組んでいる。
しかし、子どもの目は鋭く、子どもは教師の鏡であるという言葉を身にしみて感じている。私の毎日の行動、言葉遣いが、いつのまにか「この野郎、このおんつあま……」という生徒たちの日常の会話になって現れた。また、特に機嫌の悪いときには、子どもは自然に心を閉じてしまっていた。一番悩んだことは、子どもの良い所を見て指導にあたるということだった。K君は、服装、言葉遣い、忘れものと目立つことが多かったので、顔をあわせるたびに注意ばかりしていたのだが、彼は、朝刊の配達は一日も休まない。洗濯は自分でやる、試合用のユニホームは学校のものだからと手で洗うというのだ。この話を家庭訪問のときに聞いた私は、自分の力のなさ、視野の狭さを反省するばかりだった。
しかし、生徒は男女の仲がよく、私を助けてくれる。職員室の雰囲気は明るく、先生方には公私ともに面倒をみて頂ける。非力な私でもなんとか一学期を終了することができた。これからは、子どもと接する場を多く持ち、先輩の先生方の指導を仰ぎながら、子どものために最善の努力をしていきだい。
(古殿町立古殿中学校教諭)
菊作りから
小林孝雄
五月から七月にかけて、私の庭仕事は多忙を極めます。菊の苗を育てるのに最も大切な、決定的な時期だからです。特に五月上旬は、菊を栽培する人にとって大輪に希望と夢を託した、最も張り合いがあり、心弾む時期にあたります。毎朝、明るくなるとともに庭にとび出し、夕方帰宅すると、庭の薄暗い電灯のもとで苗の発育状況を一本一本点検するのです。近所の人から見ると、正気の沙汰とは思えないらしいのですが、満開時に、わざわざ我が家まで足を運び、大輪を観賞しながら慰めてくださる方もおられます。この時の語らいは、これまでの苦労を一瞬に忘れさせ、心をなごませてくれる最高の一時になるのです。