教育福島0116号(1986年(S61)11月)-021page

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随想ずいそう

棟方志功展を見る

 

棟方志功展を見る

大谷文彦

通しているが、実際の作品を見るのは、二、三を除いてこれが初めてであった。

 

夏休みのある日、いわき市立美術館で棟方志功展を見た。彼の作品は、その死後三年程して刊行された全集によってひととおり目は通しているが、実際の作品を見るのは、二、三を除いてこれが初めてであった。

ゴッホのような絵を描きたいと願い、ゴッホのようにひたむきに生きて死んでいった志功。その志功の生涯にわたる仕事を間近に見ることができるかと思うと、美術館の薄暗い展示室に入ろうとして、ちょっとした胸の高鳴りのようなものを覚えた。

もちろん棟方志功のファンは多いであろう。彼の芸術に関して深い造詣をお持ちの方もあると思う。そうした人々に伍して志功を語ることはおこまがしくもあるが、志功への思いとでも言うのか、志功ファンの最後列にあって私なりの敬意と愛着とを述べてみたいと思う。

 

私が棟方志功の名を覚えたのはいつごろであったか。最初の出会いはあいまいなのだが、いまでもはっきり思い出すのは、大学二、三年の秋ごろ、帰省した際にテレビで見た志功の座談風景である。彼はその番組の中で青森の風土を語り、ネブタの興奮と哀感を青森誰そのままに熱っぽく語っていた。人なつこい好々爺の風貌から出てくる真蟄なことば、話の相手をまるごと信じて疑わない彼の人柄が私を強く引きつけた。「無邪気」ということばの意味をその時初めて思い知ったような気がした。

以来私にとっての志功は、彼が敬慕してやまなかったゴッホ同様に、ひたむきで敬慶な生を生きた人間の典型として私の心の中に生きている。

 

今回初めて彼の作品に触れ、写真集ではわからない量感に圧倒されながら、棟方版画の呪術性とでも言うのか、森羅万象の美を描かないではおかない、彼の無尽蔵の世界を垣間見ることができた。そして、「湧然たる女者達々」「華狩順」といった大作の前に立ち、懸かれるようにしてこれらの作品を彫り上げた生前の彼の姿を想像してみた。彼はベートーベン第九「歓喜」を口ずさみながら、版木に顔をこすりつけるようにして彫ったのだ。ここではもう労働がそのまま創造の歓びにつながっている。彫ることが生きることにつながっている。

こうした彼の作品を眺めながら、私は私自身の仕事のことを考えた。私にとって創造とは何なのか。教師である私にとっての創造とは何なのか。教師であることに慣れ、日々何ものかに追われるかのように流れてゆくこの日常にどれだけの創造があるのか。生み出されるものが具体的な形を持たず、生身の人間の心というたよりないものに訴えてゆくしかないこの仕事の難しさを承知しながらも、仕事がそのまま歓喜となった棟方志功の生き方にたまらない羨望を覚えた。

(県立白河実業高等学校教諭)

 

子どもの本当の姿は…

 

子どもの本当の姿は…

堀越正文

「あと少しで休憩だ。がんばれ」

 

「あと少しで休憩だ。がんばれ」

自分自身に言い聞かせるように子どもたちに声をかげながら登り続ける…。

今年もわが校の六年生は、二泊三日の宿泊訓練に那須甲子少年自然の家へ向かった。百四十四名の児童と八名の教師の気持ちははずんでいた。三日間の生活の中心はキャンプと登山である。

登山は二日目。出発は八時。全員まだまだ余裕があった。山道のあちこちにはワレモコウ、サワギキョウの紫色の花、白いウメバチソウのかれんな花などが見られた。私たちは足どりも軽く登っていった。先頭はM先生。しんがりには若手のW先生乏養護の先生がついた。私は体力に自信が無く、真ん中につかせてもらう。なにせ、登山と呼べるような経験は数回の安達太良山と大学時代の三ツ峠山しかないのだ。

そのうちに息が切れ足がもつれ、遅

 

 

 


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