教育福島0116号(1986年(S61)11月)-022page

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くなってきたのがはっきりしてきた。自分のこともさることながら、出発前に心配していたことがあった。それは、数人の肥満ぎみの子どもたちのことであった。

 

この登山では、毎年数人が途中で脱落し、頂上へたどりつけない者がでている。今年も何人かはそうなるのではないかと心配していた。はたして、その予想を裏付けるように班ごとに歩いていたのが乱れてきた。私自身も真ん中ぐらいにいたのだが、数歩歩いては息を整え、ネマガリダケの切り株に足をとられながら、のろのろと登っていった。シャツは汗でぐっしょりになり、タオルでさえ重く感じられた。子どもたちに声をかけ、自分を励ましながらだいぶ遅れて頂上へたどり着くことができた。

それから数十分後、先生方に励まされながら、二人の女の子が最後に頂上に登ってきた。これで全員山頂に着けたのだ。私はほっとした。しかし、本当に驚き、自分の子どもたちを見る目が甘かったのに気づいたのは、二人の途中の様子を聞いた時である。(二人はかなりの肥満体で、体育は大の苦手としている)養護の先生の話によると、二人ともあまり苦しそうなので、途中で「ここで止めたい」と言ったら、そこから下山させようと考えていたという。しかし、二人とも友だちの声が全く聞こえないほど遅れながらも歩き続け、しかもそのうちの一人は、気分が悪くなり、途中で何回もおう吐しながらもがんばり通したというのである。

 

私はこの話を聞きながら、近ころの子どもは、気持ちも体もひ弱だという一般論は必ずしもあてはまらないと感じた。そして、本当の子どもの姿を見ぬけないでいた自分を恥ずかしく思った。

私はこの子たちと、つかれた体とはうらはらに、さわやかな気持ちで、オヤマリンドウの濃紺の花をながめつつ、山を下りたのである。

(三春町立三春小学校教諭)

 

 

 

山道を観察する子どもたち

山道を観察する子どもたち

 

身体いっぱいの幸せ

白井歌代子

たしか、四、五歳のころのことだったと思います。

 

たしか、四、五歳のころのことだったと思います。

村祭りの夜、私は父の手に引かれ、たった一軒の出店に連れていってもらいました。村祭りといっても、村のほぼ中央にある”旗ぼっくい〃と言われる所に、豊年満作を祝うのぼりをあげるだけのもので、店が出るということは珍しいことでした。その店は、どこからやってきたのか、普通の家の軒下を借りて、小さなトラックいっぱいのさまざまな品物を、ところ狭しと並べてありました。そこで私は、裸電球一つの光の中から、何の迷いもなく、一つの小さな鉄琴を選んだのです。それは、赤や緑や黄色の色美しい鉄琴で、うす明りの中にひときわ輝いて見えました。

子どもの遊びといっても、かくれんぼ、縄飛び、お手玉などといった素朴な時代にあって、その色の美しさは、私にとって、この世の美しい色の存在を感じさせた最初の出会いでした。そして、鉄琴を買ってもらったことの喜、びというよりは、美しい色に出会い、それが、今、自分の手の中にあるんだという喜びで、ほのぼのとした幸せに包まれたのです。更に、うれしいことに、たった八つの色しか持たないその鉄琴は、実にきれいな八つの音を持っていたのです。チーン≠ニいうその音色は、時には寂しく、時には優しく、時には暖かく、いろいろな響きをもって私の心の中に入ってきました。そして、子ども心にも、何か自分が住んでいる世界とは違う世界を感じました。

鉄琴との出会いで、父のあったかい手のぬくもりと、鮮やかな八つの色と、果てしなく静かに広がっていく音色に包まれて、私は、身体いっぱいの幸せを感じたのです。

心地良い思い出として私の心に残っているものの中でも、この鉄琴との出会いは、不思議にも鮮やかなカラーと、澄んだ音色がみごとな立体感をもって、心から飛び出してきます。そしてそれは、この世に生をうけてから、私の記憶に残る一番最初の身体いっぱいの幸せ≠ナもあり、お金では買えない貴重な心の宝物として、今でも心のカプセルに入っているのです。

 

近ごろ忙しい日々の生活の中で、心でしか見えない何かを見落として、通

 

 

 


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