教育福島0116号(1986年(S61)11月)-024page

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そして、その中心が、ここ鹿島小学校だ。いま、七百八十七名の子どもたちが、二十三名の先生方とともに学んでいる学び舎だ。

 

五年前の春、四月一日。大勢の職員、地区の代表の人たち、PTAの人々、に迎えられて着任した私だったが、当時の在籍児童の数は七百四名。いわきの発展の縮図を毎日見ながら、子どもたちも私も生活している。

 

いわきの鹿島地区は、いわき東西南北のちょうど中心部にあたる地区だ。

昭和四十年代に、平と小名浜という二つの大きな核を直線で結ぶ鹿島街道が開通してから、郊外レストランが続々進出し、街道をはさんで両側には大型店舗が次々に開店、はでな町並を形成している。

鹿島地区の発展を目で捕え、膚で感じながら成長してきたこの子どもたち。

やがてくる二十一世紀の日本の担い手として活躍が期待されている。この子どもたち。

この子どもたちの中から、何人かのリーダーが育って、安物の現代文化に警鐘を鳴らしてくれるであろう。

何人かの子どもたち。いま、その子どもたちは、この広い校庭のどこかにいるはずだ。自分がそのような人物になるとは少しも考えないで……。

この子たちとかかわりあって五年。ともに過ごした長い日々を回想している私の前に、女の子に追われて小さな男の子が逃げこんできた。ひとみがくるくると動く。

仰ぎ見れば紺ぺきの空。秋の日ざしをからだいっぱいに浴びて、子どもたちは動く、走る、ころぶ。

業間自由遊びの時間の終了がまぢかい。

(いわき市立鹿島小学校長)

 

鵬鵡返し

遠藤徹郎

ものまねをするので、よく『オウム』ですかと聞かれるが、『ヨウム』という。

 

いま、小鳥を一羽飼っている。小鳥といっても、体長三十七・八センチメートルほどだから大型である。顔つきはちょっと変わっていて、目のまわりは白く、黄色い目に小さなひとみがジロリと光り、全身うすぐろい灰色で、尾だけが場ちがいに鮮やかな真紅をしていて、決して美男美女の類ではないが、もう十二年目になる。ものまねをするので、よく『オウム』ですかと聞かれるが、『ヨウム』という。

これが、人間そっくりにしゃべるばかりでなく、実にタイミングよくしゃべる時がある。朝、籠の布カバーをは9したとたんに『オハヨウ お母ちゃん』。下半身が少々重くなったわが家のかみさんが、外から縁側に片足をかけるないなや『ヨイショ』。籠の前に立つと、頭を下げながら『コンニチワ』。こいった具合である。『コンニチワ』こいう声に玄関に出てみると、だれもいないといったことなどは、何度あるかわからない。ある日帰ってみると、『ポッ ポッ ポー』と歌いだしたが、小く聞いていると『ポー』の音程がおかしいのである。鳥は鳥だけあって、やはり音痴なのかと、夕食時にその話乞したら、何と音痴の先生はうちのかかさんだつた。これで娘たちの音痴の原因もここにあったのかと大笑いしたか、以来、そのことはわが家の禁句でめる。

 

猿も木から落ちるというが、なぜかこの鳥も止まり木からよく落ちる。落りては『アイタ』を連発している。まわりにだれもいなくなると『オー、オー』と呼ぶし、餌がなくなると『フン、フン』と鼻声で騒ぎ、知らんぷりしようものならヒステリーを起こして大暴れする。高校生の娘など『フミコ』と忍鳴られて、あわててバス停まで走っていく時がある。最近は、すっかり家族の一員となってしまった。果物が大好きなこともあるが、梨など家主より大きなものを貰い、手(足?)に持ちながら、いかにも小馬鹿にしたように食べている様をみると腹が立つ。少しばかり甘やかして育てられたようである。そんなことを口にすると『買主はそちらでも、飼主は私です』とくるから始末が悪い。この鳥も鳥なら、まわりもまわりで、いつの間にか人間的にしてしまったようである。

 

でも、鳥は所詮鳥なのである。季節はずれの鶯になってみたり、時刻はずれのあいさつをしてみたりしているのだから。いくら人間のまねをしょうとも、籠の中の鳥ではないか。といってはみても、鳥でさえ、育て方によっては人間らしい面がでるのである。たかが鳥といっても、これほど人間社会に馴染むのである。まして人間は…。だがこの鳥、口ばかりで判断力に欠けるところなんか、まるで現代っ子だ。

かみさん、飼主は私というが、『握手』といって、手(足?)と手を握り合って、真の心の交流が出来るのは僕だけではないですか。僕、飼主です。

(棚倉町立棚倉小学校教頭)

 

 

 

 

 


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