教育福島0116号(1986年(S61)11月)-026page
のハンデもあってかあきらめているようでもあった。K子の母親も、水泳の時間は大変心配しているとのことであった。
水泳の時間、K子は喜んでプールに出て来た。しかし、練習が始まるとみんなとは別に浅い所でビート板にっかまっているのがやっとの状態であった
K子はそれでも楽しそうにやってはいたが……。
そういうことがしばらく続いたが、K子を何とか泳げるようにしてやりたいという気持ちが強くなってきた。そこで思い切ってK子に声をかけてみた「Cコースでやってみるか」「はい」K子はうれしそうな顔をして答えた。
(Cコースは、まだ二十五メートル泳げない子が練習するコース)
しかし、心配がなかったわけではない。何しろ、プールの深い所はK子の背が立たないからだ。練習開始。ビート板につかまらせ、身体を下から支えながらバタ足をさせる。K子は必死にかんばるのだが、脚部が短いためなかなか進まない。それでもK子はがんばった。友だちもK子が泳いでいると、「がんばって」と、声をかけてくれる。
やがて、ビート板だけで二十五メートルをバタ足で進めるようになってきた。夏休みに入り、五年生の水泳特訓が始まった。K子は毎日、毎日練習に来た。苦しかったろうが、そんな顔は全く見せずに。そして、ビート板なしでクロールができるようになり、呼吸の仕方も覚えてきた。
夏休み明けの校内水泳大会。K子は二十五メートルの自由形に出場した。ゆっくりではあるが、K子は確実に泳いでいく。ゴールイン。全校生や父兄から大きな拍手がわき起った。私も目の前がぼうっとかすんできた。ついにやったのだ。水泳指導をしていて、K子から努力することの大切さを逆に教えられたのだ。K子がプールから上がったら、とても大きく見えた。K子は今、水泳部のマネージャーをしているそうだ。
K子よがんばれ!
(会津若松市立行仁小学校教諭)
元気に学習する子どもたち
ワカラナイから……
野中 定
テレビの電波が大衆化して久しい。特に視聴者参加の番組は年を追う毎に多くなっている。そのような中で、スタジオや街頭でのインタビューのシーンもよく出てくるが、その受け答えで気になることばがある。
「ワカンナイ」
低俗な番組に拍車をかける愚問も少なくないが、まじめな番組のまともな質問にこれでは首をかしげたくなる。特に、中、高、大学生に多いようである。質問の意味を理解し、自分の判断で意見を述べる これができないのか、避けているのか、あるいは近年の軽薄短小指向の表われなのであろうか。
県立美術館には学芸員にとって怖いシステムがある。「質問電話」である。各展示室にインターホンが備えてあり、観客は展示品や美術について質問できるようになっている。質問の内容は広範囲であり、私などは「ワカラナイ」ことも多く、学芸員スタッフの手助けを得て冷や汗でしどろもどろに答えることもある。決して「ワカリマセン」とはいえないし、もしそのような場合には「調べまして、あとでお答えします」ということになる。
世の中には「ワカラナイ」からやれることも多い。自分の死期など「ワカラナイ」から仕事もできるし生きてもゆける。県立美術館の開館に向けての仕事に携わることができたのも、未知あるいは無知だったからであろう。
美学、美術史、博物館学等のエキスパートの班長として位置づけられた私は、教育職から一転して行政職、研究職への様変りとなった。当初は、美術館が社会教育や学校教育との連携をはかるためのひとつのパイプ役をするくらいにしか考えていなかった私の全くの思い違いであった。エキスパートの方々とはいえ、実際に美術館の開館準備を経験した者は皆無であり、開館、館運営、企画展のノウハウなど「ワカラナイ」集団であった。今になって思い起こすと恐ろしいことであり「ワカラナイ」からできたとも思う。
生者必滅、会者定離の真理がある。とはいえ、生きての別れは再会もあろう。職場での別れは、また別の職場で会うこともあり、同僚との関係は大切にしょうと思っている。家庭も大事に