教育福島0116号(1986年(S61)11月)-028page
桃 李
久間木 信 夫
昔、高校の授業で国語の時間に「桃李言わざれど下自ら蹟を成す」という史記の一文を習い、何となく印象に残っで、今でもこの言葉は私などは到底達し得ない教師の理想像を言い表わしていると思い箴言としている。生徒たちが師とし得るものは多種多様であり、何物も教科書になり得るだろう。しかし毎日生徒に接していると、私はどうしても生徒を通して世を眺め、またその姿から物事を判断するようになっている。最近は、彼らが自らの範とすべきもの、すなわち桃李がなんなのか、何処に見出し得るかに迷っていると感じる。
まだ未成年であり人間的な完成を目ざして歩む学生の教科書は大人の姿であり、社会そのものである。今日の社会が果たして桃李になり得るか。学校に来ても目標の定まらない生徒は努力をしないし脱落しやすいが、その目標が混とんとしている。学生のあるべき姿に混乱があるのではないか。彼らの姿こそ社会を写す鏡でないのか。
今、学生に強い影響を与えているのはテレビと雑誌であろう。その提供者は大人である。それに彼らが渓を成している。二、三年前アメリカの少女が保原町の家庭に滞在したことがある。夕刻テレビを見て、その番組の内容がアメリカなら特殊な時間帯にしか放送されないようなものが、子供も見るような時間に放映されているのに驚いていたというのを聞いて、私は嘆息した。謙虚に耳を傾けたい。私は米、英国に一、二ヵ月滞在してみて、どちらも落ち着きとゆとりが感じられ、社会の良識は機能していると思った。もちろん欠点もある。
アメリカの子どもと話していると帰るとき必らず次のように言う、「あなたと話をして大変楽しかった。でも、もう行かなければならない時間なので……」と。これはすなわち大人の姿なのではないか。大学のキャンパスは広大で芝生が美しく整えられている。その中に自転車用、歩行者用道路が舗装され区分されている。彼らは決められた方をきちんと守って通行している。ジャパニーズは芝生の上でも最短距離を歩く。英米両大学の学生寮には落書き一つない。食堂では子どもも大人も並んで順を待つ。日本人は先を争うようにして並ぶ。アメリカの子どもは私たちが近づくと「どうぞ」と言って先を譲る
ロンドンの近くにコルチェスターという小さな町がある。町にはローマ時代の名残りの遺構がたくさんある。その町を案内をされていたとき、若者がバイクに乗って大きな音でわざとらしくふかして去った。すると案内人は「こういう迷惑になるものはみな日本からやってくる」と言った。私たちはどっと笑った。私と滞在した家庭も大きな犬を飼っていた。私の滞在中一か月以上の間、私のいるところにはその犬を出してよこすことはしなかった。私は犬は嫌いではないがその気遣いに感謝した。その主人と夕方散歩していたとき道の端で止っているので、この先に行って写真を撮りたいと草地のような畑のあぜ道を行こうとすると、ここは私有地なので入れないと言う。他人の私権を犯さないというルールはしっかりと守られている。総じて彼らの行動は子どもの規範になり得ると見てきた。ジェントルマンなのである。桃李というにふさわしい。見習いたいと思っている。
最後につけ加えれば、英米に同行した人々の日程と終りになっての感想は、「やっぱり日本がいい」であったのは、この国の素晴らしさに改めて気づいた証拠なのだが、目の前に心身共に病んでいる生徒の多い現状をみると、もっと健全な環境を与えてやる義務が大人にはあるのだと切に思う。
(県立保原高等学校教諭)
(指導資料)
郷土教育の手引
第一集義務教育課発行
我々の社会をますます発展させるためには、今後、学校教育においても地域に根ざした教育を一層充実して、絶えず後継者となる新しい世代を育てていくことが大切で、そのためには、郷土の優れた風土、文化、伝統、産業等を教材として取り上げ、郷土を愛し大切にする心情を養い、郷土の甘貝としての役割を自覚し、郷土の発展を願う立派な態度を育てる教育を更に力強く進める必要があります。
現在、各学校では、この郷土教育にも創意をこらしているところでありますが悩みや問題とするところも多く、これに応えるために本書を刊行します。
各学校で学習指導の向上に御活用下さい。
〈内容〉
○郷土教育の意義と必要性
○教育課程における郷土教育
○郷土教育の実際
(小学校編・中学校編)
〈様式等〉
○A5判 一〇〇ページ〈刊行予定〉
○昭和六十二年三月