教育福島0118号(1987年(S62)01月)-022page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

と、「ムッ」として、「そうでもないんだよ。みんなが考えるように暇なんかないんだから……」と、ムキになって答えたものである。それが、最近は「うん、暇かもね」と、サラッと言えるようになってきたのである。なかには「違うよ、先生は学校の中で、一番忙しそうだもの」なんて言う生徒もいるのだが…。

結局は、肩の力を抜いて、ありのままの姿で、生徒や先生方に接しようと思ったのである。ある意味では、"ひらき直り"の精神かもしれない。気負いがあると、周りの目が気になる。自分でせいいっぱいやっているんだという気持ちがあれば、それでいいのではないかと思うのである。

保健室での接し方にも同じことが言えるようである。「先生、頭痛て」と訴えてきた生徒に、「だいじょうぶ。少しはがまんしなさい」と言うと、「それでも保健の先生かよ。みてもくれないで。ケチッ」とくるのだが、「どれどれ、熱は」と額に手を当ててやると、ひげを生やした男子生徒が「エヘヘ…」と言って、優しい目になる。そして「だいじょうぶみたいだからがんばるかな」と、言い出す。話を聞いてやり、やさしく受け入れてやると素直になるのである。気負い過ぎて、指導する気が先に立つと、失敗することが多い。

現代は、強さや早さが、あまりに要求されすぎ、子供たちは、常に急がされているように思う。もっと、ほっとする時や、ほのぼのとした時間を多く持たせたいと思う。そう思うと、私みたいに、学校で一人くらい、宙ぶらりんな先生がいてもいいのではないかとも思うのである。

今年度は、田島中学校に転勤になり、やっと学校に慣れてきたところであるが、 「先生、全面的に協力しますから遠慮せずに、どんどんやってください」というありがたいお言葉もいただいている。周りの先生方に感謝しながら、気負うことなく、それでいて、自分の信念を失わずに、職務に専念していきたい。

(田島町立田島中学校養護教諭)

 

生徒たちの健康を願って……

生徒たちの健康を願って……

 

次の一手

鈴木清治

 

いということである。これは、ひとえに、私の大局観のなさに原因がある。

 

最近、将棋に凝っている。凝っているからといって、決して強いわけではない。いわゆるへぼ将棋である。 「序盤の鈴木」と言われている。良く取れば、序盤の駒組がうまいということであり、悪く取れば、序盤で優勢に立っていたのに、中盤から終盤にかけてガタガタと崩れ、最後にはコロッと負けてしまうということである。結局、弱いということである。これは、ひとえに、私の大局観のなさに原因がある。

ところで、どうして将棋が好きかと言えば、それは、あの対局しているときの雰囲気がなんともいえないのである。一つの盤をはさみ、互いに読みふふける。その静寂の中の緊張感がたまらないのである。そして、もっと好きなのは、あの投了するときの「負けました」という一瞬である。全力でぶつかり合った末の一言であり、胸中のくやしさは大変なものである。しかし、それでも、負けは負けであり、それを素直に口にする。その潔さに心を打たれるのである。今の子どもたちには、もしかしたら、こういう体験が少ないのかもしれない。なにかというと、すぐ言い訳を考えるなどは……。

さて、将棋では、一つの指し手がいろいろに評価される。最善手、絶妙手、好手、必然手、疑問手、奇手、悪手等々さま、ざまである。さしづめ、私の弱い将棋は、悪手の連続ということになるのであろう。

教職に就いて六年、私は子どもたちにどんな指し手を試みてきたのだろうか。帰りの会で子どもたちと欠かしたことのない握手は、決して悪手ではないと思っている。私にとっては心の和むひとときである。生きた人間どうし、手と手をつなぐだけで心が通じ合い、あたたかい気持ちになれるのだから不思議である。

今年になって始めたことに、学級通信「あしあと」の発行がある。一日も休まずに更紙一枚の左側にはその時々の話題や担任の考えを、右側には子どもの日記を載せるという簡単なものだが、それでも子どもたちは、大変喜んで読んでくれる。一学期の終業式の日には、突然、「あしあと無欠席賞」なる賞状を子どもたちから授与された。

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。