教育福島0118号(1987年(S62)01月)-026page
終え、「始めよう」の言葉で居間から隣りの学習室へ、両腕に全体重を託し四つばいでゆっくり移動し机に向います。四月には、学習について質問すると頭を振って返答の合図をする始末、言葉がないのか、と思いました。そのK君が現在「先生、ロボットの絵を描きたい」「のっぽさんがこんなことをやっていた。ぼくもやってみたい」と希望と本音が聞けるようになりました。
例えば、絵を描きたいというとき、興味関心の高まりを持続させ、実現させるための手だてとして、K君の考えている「ロボット」について十分話し合い構想を確かめます。自分の考えを聞いてくれることがわかると話が弾みます。終日、テレビで大人社会の話題を吸収しているので豊富です。年齢相応の言葉が聞けるかと思うと「新人類」、「やらなければしかたがない」が飛んできて驚きます。言葉の意味が理解されているのか疑う時もあります。
子ども心に絶対に触れられたくないこともあり「先生、秘密ね」と打ち消す時は、そっと見守ることにしています。
さあ、描こう。クレパスが画面を滑るように動き「ここが頭、レーザ−光線がピーと発射するんだ」「ここが心臓、宇宙を飛ぶ力がたまっているんだぞ」 「太い足、ドスン、ドスンと歩くんだ。土に穴があいて噴火するんだ」「これが手、ウルトラパンチが飛ぶんだ」「手足を伸ばして宇宙を飛ぶんだ。Kウルトラロボット博士が発明したんだ」と語りかげながら描きます。そして満足の表情が全身から発散します。
自己主張が強い反面、困難な問題にぶつかると「おしまい、手がいたい」と、依頼心が強く自暴自棄の態度が見られた四月、「何もできないロボット」から、宇宙を飛び、いじわるの人をこらしめ、病人を助ける医師に、希望を話せるロボット博士に変身してきたのです。この絵が福島市福祉展に入賞しました。この喜びはこれからの生活の糧となり、支えになるでしょう。
教育熱心な両親は共働き、K君の介護は祖母なので、いつも授業の様子を知らせる連絡ノートを書いています。K君と私と家族・両親との心のパイプ役、それが連絡ノートです。
難病を背負った子の介護に、日夜苦労し休む暇のない家族の気持や立場を考える時、家庭に教師を迎え入れることは、教師以上に気苦労と負担をかけていないか、多くの気くばりに感謝し、申しわけなく思う時があります。
子どもの示す反応から可能性をみつけだし根気強く反復、指導、訓練に当れば、子どもの変容は望める、と信じたい。K君自身、自分の障害がわかり精神的に強くなり、家族の愛情に支えられ、充実した生活ができることを願いつつ。K君、がんばれ!
(県立大笹生養護学校教諭)
感動の思い出
新田宣雄
十三年前、福島県海浜青年の家に勤務していたころ、主催事業の「県青年学級生大会」の講師の人選について、所員全員で話し合ったことがあった。その中で、今の若者は、学者や理論家の話よりも、身をもって体験した苦労話の方が、感動を受け成果があがるだろうということになった。
そこで、当時、日本女性としては、初めてエベレスト登山に成功した田部井淳子さんにお願いし、講演をいただくことになった。その講演の中で、「私は、数多くの登山をしているが、その度ごとに、綿密な計画を立て、その準備に万全を期している。その当時私には、生後数か月の乳児がいた。登山のためには、それなりの体力づくりのトレーニングをしなければならない。そこで、子供が最も熟睡する夜の時刻を調べ、その時間帯に、毎晩数時間のランニングをして身体を鍛えた。その苦労や努力があってこそ成功した。……エベレスト山の頂上に、日の丸の旗を掲げた瞬間は、嬉しいとか、喜びとかではなく、もうこれ以上は、登らなくとも歩かなくともいいんだ。これで終ったという満足感、充実感で胸がいっぱいであった」と述べ、最後に「人間の能力、体力の限界は、努力で伸びる」と、力強い言葉で結ばれた。
講演が終了した時、聴衆一同、我を忘れ、ただ感激あるのみであった。
命をかけた体験談こそ、人の心を底からゆさぶり、感動を与えるものであることをひしひしと感じたものである。
その時の「人間の能力、体力の限界は努力で伸びる」という言葉は、私の脳裏に深く刻まれ、今でも「座右の銘」として、学校教育の中で生かすように努めている。
昨年、九州宮崎の鵜戸崎にある、ウガヤフキアズノミコトを祭神とする鵜戸神宮を参拝したことがある。実際に、神宮の前に立った時は、この地こそ神話の国そのもので、日本民族の発祥の地であることを、身近かなものとして感じ、底知れぬ新たな神秘感を覚えたものである。
更に、バスの中で、戦時中の特攻隊の基地近くを通過する時、福島県出身の若き隊員が出撃前に、母親に寄せたという最後の手紙を十九才のガイドさ