教育福島0119号(1987年(S62)02月)-007page

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昭和61年11月3日県教育・文化関係表彰式において受賞する筆者

昭和61年11月3日県教育・文化関係表彰式において受賞する筆者

 

考えが何でもいつでも発表されていることは、よいことである。しかしその意見が、わがまま、気ままで複雑化し、社会に混乱化をきたすような風潮になっていることは困ったことである。

例えば、「青年の健全育成を考える集会」が開かれたとする。参会した人々はおのおのの立場の正当性を主張し学校教育がよくないから、家庭が無関心だから、社会教育に欠陥があるからと批判するだけである。自分に責任があると誰も反省がない。こんなことではいくら会合を開いても、よくなりはしないのである。

私は二十九年四月、福島市飯坂町湯野小学校の校長に転じたときや、七年間県社会教育課で教育行政として成人の指導を手がけてきたときなど、いつも年少の子どもの教育に、いささか戸まどいを感じていた。そのころ、よく湯野地区全体の教育の現場をながめてみると、学校の教育も家庭教育も社会教育も、まったくバラバラに行なわれた姿に失望を感じていた。何とかして、地区民全体が、一体となっての教育活動はできないものか、ひとつ、子どもからおとしよりまで、生き生きとした明るく喜びながら生活している姿に育ててみたいという意欲にかられたのである。

それからの十年間、創意工夫をこらし、学校も公民館も新教育事業を企画し創造して、まさに「地域社会をあげて教育活動」を実践してきたのである。特に学校教育では、児童の青操教育を目標に、図画学習に力を入れた。おかげで「桃栗三年、図画八年」で図画日本一を二年連続、高松宮賞を受賞した。社会教育では、湯野公民館の教養部長として、夫婦共学の松の葉学級の主任講師となり、十年継続した実績により、「朝日・明る 社会賞」をいただき、湯野小学校PTAの成人教育では、社会学級、父親学級、愛宕学級(クラブ活動)等の活動がみとめられて文部大臣賞を拝受した。

私は六十一年度に県の文化功労賞の受賞者となったが、地域の人たちの力をできるだけ、ひきのばす努力を、まじめに継続して行くこと、しかも、「生涯にわたっての、ひらかれた教育観」のもとに努力することの大事さを、身をもって体験した。

 

提言

 

 

 


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