教育福島0123号(1987年(S62)08月)-026page
料理によって季節の変化を感じたものです。キュウリやナスのぬかずけが出れば、夏の近いことを感じ、枝豆が出れば、秋を感じたように思います。しかし、現在では、スーパーに行くと、季節毎に収穫されるはずの野菜や果物が、一年中殆ど同じように店頭に並べられ、それらから季節の変化を感じ取ることが出来なくなりました。
このことは、私にとっては、感覚的に非常に不思議なことのように思えて仕方がありません。夏にしかできないはずのキュウリやトマトが冬の店頭にそれも大量に並んでいたり、春にしかできないはずのイチゴが秋に売られていたりすることが、理屈としては分かっていても何か変な感じがします。
このようになったのは、ハウスで野菜が栽培されるようになってからのことと思いますが、これとは別に、最近では、ちょっと違った現象もみられます。それは、外国産の野菜が出回るようになったことです。
ニュージーランド産のカボチャやメキシコ産のアスパラなど、日本の産地での出荷時期と異なる時期に大量の外国の野菜や果物が輸入され販売されているようです。このこともまた、我々の食生活での季節感を感じさせなくする原困の一つになっているように思います。
最近山菜取りを楽しむ人が多いのは、季節感を求める気持ちが強く表れた結果によるのではないかと思います。
山菜取りに山や野原を散策することには、春の木々の芽生えの新緑、夏の林の深緑、そして、秋の紅葉と、季節毎の彩りの変化や、季節季節に咲く野の花を見るなど、野山の四季の変化を肌で感じることが出来る楽しみがあるのです。
現在の子どもたちの環境を見てみると、校庭には雑草などは殆どなく、植木はあってもひばや松などの常緑の針葉樹がほとんどであるなど、季節的に変化のないものが植えられていることが多く、子どもたちが季節を感じるものはあまりみられなくなっているように思います。また、家庭においても暖冷房のある家に住み、暑さ寒さの厳しさも感ずることなく過ごしているようです。
一年中同じ食べ物を食べ、同じ環境に生活することに慣れて、季節感など感じずに生活しているのではないかと思われます。
この様な子どもたちにも、季節の変化を感じる様な場を作ってやらなければならないと思います。
そのためには、花壇には季節の変化が分かるような花を植えるなど、環境を整備すると共に、野外で行う活動などを多く取り入れ、教材などにも季節感を養うようなものを取り上げるようにしなければならないと思います。
このようにして季節感豊かな子どもたちを育てていきたいと思います。
(県教育センター理科教育係長)
花を育てるように……
伊藤敦子
この四月の異動で、転勤してきた私の学校は、若松市内でも最も古い、木造校舎である。
春とはいえ、まだ肌寒く感じられる四月一日に着任し、不安と寂しい気持ちになっている私の心を温かく迎えてくれたものがあった。それは、廊下の中央や棚のあちこちに飾られた鉢植えの花であった。春の匂いを運んでくれる福寿草やふきのとうの花が、かわいらしい姿で咲いていた。その花に、この学校に生活している先生方や生徒の心を垣間見たような気がして、なんだかうれしくなったものである。
それから三か月、廊下の花々は、こごみ、つつじ、さつきになり、ほたる袋、ゆり、ベゴニア、ペチュニアと変わっている。もちろん、教室には、花いっぱい運動で生徒が植えた、インパチェンスやサルビアが今を盛りと咲きほこっている。
くずれ落ちそうな天井、歴史を物語る腰板、穴だらけの床、歩けばきしむ廊下、数えあげたらきりがないほどの古い校舎である。“どうせきれいになどなるまい”とほうっておきたい気持ちになるところを、古いからこそ、少しでもよい環境づくりをと考えて飾られた花は、きっと知らず知らずのうちに生徒の心に浸透しているにちがいない。
若い頃は、目の前に美しい花があっても、気づかずに通り過ぎてしまうことが多かったが、年のせいか、数年前から花に興味を持ちはじめた。いろいろな種類の花を買っては失敗し、失敗しては買うという繰り返しであったが失敗を重ねているうちに不思議なことに気づいたのである。それは、物言わぬ花にも、人の心が分かるということである。人間が、愛情をかけると、花はそれに応えて、みごとな美しい花を咲かせてくれる。特に、限られた環境の中で育てられる鉢植えの花は、むづかしい。ちょっと目を離すと虫がはびこって手がっけられない。そのくせ、毎日顔をみて、葉をなでてやると、うそのように虫がっかない。
生徒にも同じことが言えるのではないだろうか。ただ、教え、叱り、立派なことを話しても、生従の心の中にすむ悩みや不満の虫には気がっかない。そして、時々、びっくりさせられるような生徒の行動に、「こんな指導はし