教育福島0123号(1987年(S62)08月)-028page
あり、その中に福島県立平養護学校翠ヶ丘分校があります。ここの児童、生徒は、すべて日常生活は介護を必要とするものがほとんどです。脳性まひを主障害とする子が全体の七割を占めていますが、単一の障害ではなく、精神発達遅滞、情緒、視力、言語障害など、多様な障害が重複しています。寝たきりで物を提示しても見つめたり、目で追うこともできない、物を握らせても握ろうともしないし、呼びかけに対しても反応が乏しい子がほとんどなのです。
着任当初、この子たちの指導は、いったいどういうふうにするのか、可能性はあるのか疑問に思ったのも事実です。しかし、学校が運営されはじめると、誠にすばらしい教育がここにはあったのです。
「初心忘るべからず」この言葉を現在の私は大切にしたいと思っております。養護教育に携わるようになって、私も障害の重い子どもたちへの接しかた、教育課程の細部(特に養護・訓練)について、同僚職員からのオリエンテーションを受けましたが、指導には、心のゆとりと、急がず、あわてずに待つ心とやさしい愛情が大切であることを、自分なりに確認することができるようになったのです。
毎日の、子どもたちとの関わりは、ほんのわずかではありますが、日がたつにつれ、表情が明るくなったり、よく動いたり、笑ったりするようになり、教育のすばらしさを知ることができました。
障害が重度化し多様化するほど集団学習は難しいと言われるように、マンツーマンの学習が行われています。普段がマンツーマンの学習なので、集団・学習をどう取り上げていくかが大切な問題となってきました。こうした中で、創意の時間「みんなの時間」は、貴重な時間でもあります。担任以外の先生や友だちと、いろいろな教材を通して接することによって、普段とは違った子どもたちの姿を見ることができます。
ある子は、担任の足音や声を聞きわけ笑顔をうかべ、「○○君、学校ですよー」の呼びかけに身を乗り出して寄ってきたり、登・下校の運搬車の上で体いっぱいの喜びの表現をしたり、それぞれの表情はちがっても、学校に登校したい、先生と会いたい意欲と喜びは、みんな立派に表現しています。
学習の場は楽しく、有意義な時間を過ごせるところ、喜びを肌で感じるところです。満ちあふれる笑顔で学校に通うことは、子どもたちにとって「生きていること」の最大の自己認識だと思います。全職員が共通理解にたって深い愛情をもって接し、「生きる力」を持たせる働きかけをする様子に、教育のすべてをみることができ、頭の下る思いがします。
病気や障害と力いっぱい闘い、努力している子どもたちと学習する機会を得たことを大切にしたいと思います。
(県立平養護学校翠ヶ丘分校長)
「みんなの時間」
夏を迎えて
島昌子
リチャード・バック著の「かもめのジョナサン」をご存知でしようか。
ほとんどのかもめがそうであるように、ジョナサンもあるかもめの一群に所属していました。ところがジョナサンは、仲間のかもめがより多くの餌を得ようとして岩壁を飛び回ったり、餌をめぐって争ったりする姿を尻目に、ひとり飛び方の練習を続けているのでした。どうしたらもっと高く舞い上がれるのか、より整ったフォームで飛行できるのか、その模索が彼にとって生きる目的だったのです。ジョナサンは語りかけます。日々の糧の獲得にのみ力を注ぎ、ただ生命を永らえているだけで本当に生きていると言えるのだろうか。自分の枠から飛び出し、冒険をして、より大きな自分を求め、より高いところに自分を押し上げようと努力してこそ、真の生きる意味があるのではなかろうか……と。
私は常々、子どもたちをこのジョナサンのように育てたいと思っています。私の世代も、無気力・無感動・無関心という「三無主義の世代」と言われ続けてきたのですが、現代の子どもたちは、私たちよりもさらに受動的に依存的になってきているように感じられます。たいして大きな絶望もないかわりに、さほどの充実感も持てないという変化の乏しい日々を送っている気がするのです。それが幸福なことなのか、不幸なことなのか一概には言えません。しかし心の奥底では、いつも情熱を持って生きたいと望んでいるのではない