教育福島0123号(1987年(S62)08月)-030page
一匹の犬としてその存在を認めて欲しいということを、いじらしいほどの豊かな表情としぐさで訴えようと努力する。その様子は、犬でありながら、時として人間以上に人間らしい感情を表し、読む人の共感を得たものと思われる。
我が家にも、二才になる一匹の飼い猫がいる。娘が、まだ目も開かない状態の捨て猫を拾ってきて育てた猫である。物を飲み込む力もなかった子猫に脱脂綿やら、人形用の哺乳瓶まで持ち出し、ミルクを口に含ませてようやく成長させた。それだけに可愛さもひとしおで、寒いだろうとコタツに入れ、腹がすいたことだろうと食べ物を与え、戸の前に立てば自動的(?)に戸が開くといった手のかけようである。
しかし、猫の側からみると「猫可愛がり」もいいところ、けんかでもしょうものなら、人間共が一斉に飛びだして来て、自分の強さを発揮する間もあらばこそ、である。マンガの飼い犬とは、どこか違った生き方である。
五月のある日曜日、一人の教え子が私の家を訪れた。その表情は、明るくいきいきしていた。
話を聞いてみると、それまで在学していた短大を中退し、別の大学に入学しなおすというのである。一応希望して入った短大でもあるし、中退するなんてもったいないとも思ったが、話をしているうちにうなずけるところもあったっ
高校三年の、自分が進学する学校を決定する段階になっても、自分が将来どんな生き方をしたいのか、何の仕事をしたいのかも決まらず、自分の現在の能力で合格圏内にある短大の中から選んだ、といういきさつがあった。このことは、進路を決定する時期を迎えても、それを自分の意志で決定する十分な条件が整っていなかったということなのだろう。
今回の進路の変更は、自分なりの目標を定めて、親とも十分話し合いの上だした結論だという。めざす大学は、これまでの能力から考えれば少し難しいとも思われるが、自分の意志で決定した目標となれば、意欲を燃やしてきっとがんばってくれるものと信じている。
(県立原町高等学校教諭)
実力を発揮できない(?)我が家の猫
子どもは星
奥河敏男
「どの子も子どもは星 みんなそれぞれが それぞれの光をもってまたたいている 光をみてくださいと パチパチ目ばちをしながらまたたいている光をみてやろう 目ばちにこたえてやろう みてもらえないと 子どもの星は 光を消す 目ばちをやめる 光を消しそうにしている星はないか 目ばちをやめかけている星はないか 光をみてやろう 目ばちにこたえてやろうそして 天いっぱいに 子どもの星を輝かせよう
深い教育哲学に支えられた澄みきった子どもをみる目。これが教育の出発点だ。」
今から十年前のことである。当時、筑波大学の教授であられた宇留田敬一先生の薦めで出会うことのできた東井義雄著作集に掲載されている一篇の詩である。子どもと毎日接している私たちにとって、子どもをどうみるかは決定的に重要なことである。一貫した暖かい人間愛とゆるぎない信念のもとに綴られている著作集の一つ一つの事例は、実に新鮮で感動的である。
授業で勝負。東井先生にとって授業は、子ども一人一人のものの感じ方、思い方、考え方、行い方は、子どものいのちのひとかけらひとかけらである。……だから、そのひとかけらひとかけらが、子ども自身にとっても、私たちの祖先にとっても、世界史の次の頁にとっても、どんなに大事なものであるかを、私たちは子ども自身に知らせ、子どもや仲間やおとなにも知らせ誰よりも先ず教師自らがそれを大事にしてやらなければならない。単に大事にするというだけではいけない。最も計画的、効果的に、選択された材料によって磨かせ磨きあわせ、教師自身、磨いてやらなければならない。……これを求めて、子どものいのちを磨くしごと、それを私は『授業』だといいたい。……『授業』は子どもの燃えあがりと、子ども仲間の主体的な燃えあがりと教師の主体的な燃えあがりの、意図的、計画的な組織づけでなければならない。その中での、おのおのの主体の高まりでなければならない」のである。
なんと深い教育観、学力観であろうか。いのちを磨くしごとにかけたその使命感とエネルギーが、紙面からほと