教育福島0123号(1987年(S62)08月)-053page

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博物館ノート

史跡阿津賀志山の合戦(国見町)

泰衡が築いた二重堀(模型)

今回は、博物館総合展示「中世」の展示室で持に子どもたちに人気のある、阿津賀志山二重堀模型を紹介します。

阿津賀志山は、伊達郡と宮城県刈田郡との境にある標高二百八十九一四メートルの山で、ここは「伊達の大木戸」ともいわれ、この山から宮城県境に至る山地は、軍事上要害の地でした。阿津賀志山の合戦は、源頼朝が一一八九年(文治五年)に、奥州に勢力をもっていた、平泉の藤原泰衡を追討し、全国を統一するために、軍をおこした戦いです。その主戦場となったのが伊達郡国見町の阿津賀志山で、泰衡方が築いた防塁は、二重の堀と三重の土塁の部分から成ることから、二重堀といわれています。『吾妻鏡』文治五年八月七日の条に記されている「口五丈堀」が、この二重堀です。発掘調査でも幅十五メートルの二重の堀が確認されています。戦いは、頼朝軍の勝利に終り、ここに奥州藤原氏は滅亡することになったのです。

この合戦のようすを模型として製作するにあたり、発掘調査のデータ、鎌倉幕府の事績をしるした史書『吾妻鏡』や、この時代の合戦のようすを表わした絵巻物などから、地形や武器・武具などを調べました。これらのことを総合して合戦の状況を想像復元したこの模型は、二重堀と五十二体の人形、十二体の馬、草木などで構成されています。人形は蝋でできており、五十二体それぞれに異なったポーズをしています。向って左側から攻めている方が頼朝軍です。刀を振りかざし土塁をかけ登る武士、転倒する馬など、動きのあるポーズがとられており、視線を下げて見ると臨場感あふれる光景が広がります。子どもたちが手を触れたくなるような気持がわかります。大事な資料ですので、触れることはできませんが、奥州中世の幕開けともいえる阿津賀志山の合戦に想いをめぐらし、歴史を肌で感じるための、きっかけになればと思います。

今日も子どもたちが目を、輝かせながら阿津賀志山の合戦を見学しています。

防塁を越える頼朝軍

防塁を越える頼朝軍

阿津賀志山の合戦と防塁(二重堀)の復元模型

阿津賀志山の合戦と防塁(二重堀)の復元模型

二重堀を人馬が駆け進む

二重堀を人馬が駆け進む


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