教育福島0124号(1987年(S62)09月)-025page
檜枝岐中学校での思い出
坂内康一
私が教師になれたのは昭和三十九年である。当時「秘境」と呼ばれた南会津郡檜枝岐村立檜枝岐中学校が新任校である。県内では最も奥地にあって、会津田島町からジープで三時間もかかったことを記憶している。赴任の途中道路に穴があいていたり、大きな石ころがあったりし、そのたびにジープを止めたり、速度をゆるめたりしながらようやく行き着いた。校庭にはまだ一メートル近く雪があるのには驚いた。
早速校長室に案内され、教頭先生から、この村の奥に分校が二つあるが私の場合は本校に勤務することになっている旨を言われた。分校でなくてホッとしたものである。
生徒たちとの初めての出会いの時間のことである。教室に入るとニコニコ顔の一年生十九名が行儀よく私を待っていた。その時の子どもたちのひとみはキラキラと輝いていてとてもまぶしく感じたことが印象に残る。
子どもたちはなにかにつけて近寄ってくる。下宿先にもよく遊びに来た。日曜日にはよく尾瀬沼へ出かけた。山小屋で遊んだりボートをこいだりして楽しんだ。駒ヶ岳へもよく行った。山の空気はとてもおいしかった。
部活動はバレーボールをみることになった。練習ぶりをみるとなかなか熱が入っていてやる気に満ちている。私も毎日のように彼女らと一緒に汗を流した。同僚の教師や村の青年と一緒に練習することもあった。しだいに力をつけてきて県大会に出場するまでになった。校内はもちろん村中が喜びにわいた。マイクロバスが他町村に先がけて購入されたのがこの時である。
三年目の春、転勤するはずだった私は赤岩分校へ行くことになった。重いリュックを背おい、アザラシのシールをつけたスキーをはいて分校へ向かった。朝八時ごろ出発して分校に着いたのが夜の九時。あの雪道を歩いたつらさは忘れられない。
若い三人の同僚との生活は楽しかった。協力という言葉を実感として味わったと言える。赤沼は、風力発電であったが、それがよく故障した。風力電気の乏しい光やカーバイトによるカンテラの光で夜をすごした。冬の生活は苛酷すぎた。寒さや雪の量は本村とは比較にならないほどすごい。病気になったら死ぬしかないと本気で思ったものである。分校の子どもたちは底抜けに明るく勇気があった。勉強もよくしたし私たちを信頼してくれた。それだけにあの子たちとの別れは本当に?'つかった。今でも「さようなら」という声がきこえてくるようでならない。
この村で学んだ三年間はとても意義深く言葉では言い尽くすことができない。子どもや先輩教師、同僚そして村の住民の方々から受けた教訓。未熟な学生生活から苛酷な自然との出会いと体験。この二つは現在の自分の大きなささえとなって今もなお心の中に生き続けている。
(会津高田町立第二中学校教諭)
いまとむかし
遠藤嵩
昨年の三月、現任地の磐崎中学校への転任の辞令を手にした瞬間、三十年前の思い出がなつかしく浮かびあがってきた。
若い時代、同じ学区内の小学校に一年間勤務をし、五年生を担任していたことがある。はじめての小学校勤務で学習発表会・音楽会・誕生会など物めずらしいうえに、一年生の体育まで担当し、若さにまかせての毎日であった。
当時の磐崎地区はのどかな田園地帯で、小学校は、前面に小さな川をはさみ水田が広がる地域に、木造二階建の校舎が建っていた。
また、中学校は、小学校よりすこし離れた高台の旧湯長谷藩の館跡に松林を背にして、木造平家建の校舎が三棟並んでいた。どちらの学校も、農村の緑の自然に囲まれたすばらしい環境の中で、子どもたちは素朴で伸び伸びと活動していたような思いがする。
現在では、小中学校とも鉄筋コンクリートの三階建の近代的校舎に生まれ変わり、内部の施設・設備も一段と充実している。学校周辺の環境も、いつの間にやら水田は減少し、山林は切り開かれて住宅団地にとかわり、農業従事者の比率も非常に低下している。
磐崎中学校での最初の入学式。何人かの保護者に声をかけられた。
「先生、しばらくでした」
「昔と変わりませんね」
そのたびに、自分が担任した子かな他学年の子かな!と思い起こすのが容易でなかった。
わずか一年間の勤務であったが、長い間記憶にとどめてもらえたというこ