教育福島0124号(1987年(S62)09月)-026page

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とは嬉しいものである。また、いくつになっても、子どもにとっては先生なのかという思いを強く感じた。

その後、学校を訪れる保護者に

「先生は、昔はもっと厳しかったのに今は」とか「もっと厳しい指導をお願いします。宿題を多くだしてください」などの要望やら苦情を聞くたびに三十年前の保護者からも同じようなことばを聞いたことを思いだした。

現在の子どもも、昔と同じく廊下は走るし、いたずらもする。また、遅刻もするし、宿題も忘れてくる。保護者のことば、子どもの動きを見ているといつの間にやら三十年前にもどったような錯覚をおこしてしまう。

学校は、昔と違い、校舎も施設・設備も近代化し、学習指導法なども進歩している。また、社会構造や地域環境も大きく変貌してきている。

ものの外見は時代の推移とともに、変化していくことは避けられないことであり、また、変化すべきと考えている。しかし、子どもへの親の期待感や人の心など内面的なもの、精神的なものは、むかしもいまも変わりがないのではないかと思われる。

(いわき市立磐崎中学校長)

 

K子ちゃんのあいさつ

 

K子ちゃんのあいさつ

 

佐山 洋子

 

気持ちがいいもので、だれの心も和やかにします。心を開く鍵でもあります。

 

明るく元気のいいあいさつは、気持ちがいいもので、だれの心も和やかにします。心を開く鍵でもあります。

私は、今、一学年三十七名の担任です。入学してきた子どもたちと初めて交したあいさつが、「おはようございます」でした。元気よくあいさつする子、蚊の鳴くような声の子、どうしても言えない子とさま、ざまでした。そうした中で、「このかわいい子どもたちと、さあ、今から出発だ。しっかりしなくちゃ」と、いつも心に誓うのですが、今回は、少し違っていました。

「どうしても言えない子」の中に、言いたくても、この言葉が言えない子がいたのです。香港で生まれ育ったK子です。三月まで香港に居て中国語の中での生活で、家庭でもいっさい日本語を使わなかったということです。日本語でっけられた名前すら、三月に日本に来てから使い出したというほどでした。目の前で、ペラペラと中国語を話す親子に、「さあ、大変、がんばらなくちゃ」と、これまでになく緊張しました。

母親が、日本語をまるで話せないため、家庭ではどうしてもあちらの言葉を使ってしまうというのです。そこで学校では、日本語でゆっくり話しながら、手を取り、身振りを入れて教えることにしました。しかし彼女には、他にも難問がありました。身の回りのことは祖母やメイドがしてくれたとかで、一人で着替えはできないし、鼻をかんだ紙は机の下に平気で捨て、体育の時間には、他の子どもたちが膝を抱えて休んでいるのに、腕まくらをして横になるしまつでした。何度か手をとって教えたのですが、「この方が楽なのに」という顔をしてすぐ横になってしまうのでした。

あれから四か月。今では、学校生活に慣れ、友だちも沢山できました。言葉も大分覚え、単語を並べて何とか自分の意志を話せるようになりました。学級会では、歌の指揮の係を、毎回はりきって上手に行っています。うれしいことに、かぜをひいても休みたがらず、「おはようございます」と毎朝元気に登校しつづけました。このことを通じて、言葉が通じなくても心の通い合いが大切なのだということをしみじみ考えさせられた四か月でした。

K子のあいさつは、大変上手でした。大きな、はっきりした声で、両手をそろえてできるのです。他の子どもたちもK子に刺激されて、朝のあいさつを忘れなくなりました。そのため、学級全体が明るく、なごやかな雰囲気に変わりました。

幼稚園から登校拒否気味で、黙って教室に入ってくることがあったM子があいさつをし、時々、K子の世話をする姿を見かけるようになったのです。休む回数も減ってきました。

明るく元気のいいK子のあいさつは学級の中で広まってきました。これからは、あいさつのよさを知ったこの子どもたちの活気が他の活動にも広がっていくことを願っている今日このごろです。 (小高町立小高小学校教諭)

 

元気にあいさつ「いただきまア〜す」

元気にあいさつ「いただきまア〜す」

 

 

 


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