教育福島0124号(1987年(S62)09月)-027page
結び合う心
小林幹夫
五月二十七日、快晴。中体連石川支部陸上競技大会は、最終種目の男子八百メートルリレーを迎え、ムードは最高潮に達した。
その日、決勝審判員を務めた私は、間断なく繰り広げられる競技にいささか疲れをおぼえながらも、やがてスタートした第一走者の動きに、粘っこい視線を送っていた。
その時、一陣の風。
「ガンバレ、ガンバレ○○中」
「ファイト、ファイト○○」
自校名と選手名を連呼する悲鳴にも似た声援。その雑然と交錯する中で、その学校の声援はひときわ高く、またまとまって海鳴りのように聞こえてくる。その時傍らにいた同僚のS先生と、「どこの学校かな、たいしたもんだね」と、小声で話しているうちに、その海鳴りは浅川中の生徒の名前となって聞こえてきた。「あれっ、うちの学校だよ」私たちは、顔を見合わせて、大きくうなずきあった。
そして、母校を愛する気持ちを率直に表現できるようになった生徒たちに、強い感動をおぼえた。あたりまえのことかもしれない。だが、そのあたりまえのことを、なかなかできない時期があった。
昨年四月、本校に赴任し、文字どおり嵐の一年間を送った。前任校では無事三年生を卒業させ、教師としてのかすかな自信のようなものをつかんだ気でいた。そして、さあ新天地でもがんばるぞ、と意気ごんで臨んだものだが、現実はそう甘くはなかった。
「こういったケースには、こう対応すべきだ」と、書物から得た知識と、経験から得た技術を駆使したはずなのに、すべてが裏目に出てしまった。自信が崩れ始めた。と同時に、一部の生徒が声を荒げて向かってくるようになった。でも負けられない。学校は生徒たちとの対決の場だと、そのころの私は、真剣にそんなことを考えていた。
それでも、先生方と幾度となく話し合いの場を持った。そこから得た結論は、「教育相談を通して生徒理解を図ること」であった。「生徒たちの言い分や悩みを、心から聞いてやること」であった。私は最初いやがられ、煙たがられながらも、生徒たちの生活の中に座りこんだ。機をとらえて話しかけ、話し合い、話し込んだ。そうしているうちに、生徒たちの心が和み、それがちょっとした表情からもくみ取れるようになった。
そして迎えた今年の四月。新体制のもとで、教育相談的指導が、より明確に打ち出された。校長先生、教頭先生が率先して校舎内を巡視し、生徒たちに声をかけられている姿に、我々職員もタイアップした。生徒たちの表情に、和みと落ち着きが、少しずつ、しかしはっきりと見えるようになってきた。
ここで、もちろんすべての問題が解決したわけではない。先日の職員会でも、「言葉づかい」「チャイム着席」等の問題が、二学期の課題として確認されたばかりである。
でも私は、支部陸上競技大会の時に、ようやく心が結び合い、わが校とわが友の名を高らかに叫び合った生徒たちのあの海鳴りを信じ、これからの飛躍を期待したい。
(浅川町立浅川中学校教諭)
さりげない一言
浅野テル子
四十歳にして私はようやく自分の教員生活を振り返る余裕をもつことができました。思い起こせば、今までで一番大変だったのは、やはり子育てで辛かった十年間のことです。
その当時、私は小野町でお世話になり三人の男の子に恵まれました。我が子にとっても小野は、もう一つの故郷であり、親代りのおばさんもいる懐しいところでした。三人の子が誕生する間に、産休が六週間から八週間になり、生理休暇・つわり休暇・育児休業などの制度もできました。その休暇を利用することはなかなかできなかったけれども、働く女性にとって夢と希望を与えてくれた時代でした。
その当時、小野中は生徒数千人以上のマンモス校で、部活動も盛んで退勤時になっても体育館や校庭は、いつも生徒たちがあふれ、熱気でいっぱいでした。そんな中で、私はいつも後髪を引かれる思いで学校の坂道を小走りに帰ったものでした。そのような私の急ぐ姿を見て、声をかけてくださったのが当時の校長先生でした。