教育福島0124号(1987年(S62)09月)-029page

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一年ぶりに、実物との対面であった。

中世板碑の有り様は、関東地方鎌倉時代のものが顕著であるが、時代が下るにつれて普及し、本県でも数多く確認されている。また、必ずしも支配階級あるいは僧侶による造立ばかりではなく、この碑のように素朴で庶民のなんらかの供養や願いを反影したであろうことを思わせるものも多い。

おもうに、このような出会いは、歴史の長い歳月と、これに関わってきたたくさんの人々を介さずにはあり得ない。また、Oさんのような地道な研究家の案内がなくてもはたせなかったろう。折しも八月。終戦より四十二年の平和な年月が流れた。われわれの現代史が、やがてどの様に記録されるのか、想いを馳せながら山を後にした。

(県立川俣高等学校教諭)

 

新任地で思う

 

矢部征男

 

けに、古くからここを知る人は隔世の感をもって峠の思い出を語ってくれる。

 

『長いトンネルを抜けると雪国であった』標高千メートル近い駒止の長いトンネルを通り抜けるたびにこの一節が思いだされ、不思議に気持ちのあらたまる思いがする。目の前に連なる幾重もの峯々はどっしりとして、もの静かでいかにも豪雪に耐えてきた力強ささえ感じる。南会津東部と西部を結ぶこの峠路は、古くから重要な交通路であり難所でもあった。特に積雪期ともなれば峠越えは難渋し命にかかわることさえある魔の峠であった。今ではこの峠もトンネルの開通によって快適な自動車道に生まれかわり、わずかな時間で越えてしまう。それだけに、古くからここを知る人は隔世の感をもって峠の思い出を語ってくれる。

峠をくだると、山あいを流れる伊南川の両岸には水田が開け、河岸段丘上にはいくつもの集落が点々と連なっている。どっしりと大きなカヤぶき屋根の曲り屋はなお一層の静けさと落ち着きを感じさせてくれる。

「先生、トマト好きかや」といってもぎたてのを持ってきてくれる生徒、「先生、魚食べてけやれ」と獲つたばかりのアユをビニール袋に入れ差し出す生徒、ここには、かつて体験したことのない自然と、その自然にはぐくまれた優しさに満ちた人の心があった。そんな心に安らぎを感じるのは年齢のせいなのだろうか、それとも懐古趣味なのだろうか。

それにしてもこのような生徒たちに自分は一体何をしたらよいのか。どんなことをしなければならないのか。知識や技術を身につけさせることか。これからの時代を創造し、適応して生きる力を与えることか。これらも大切なことであろう。しかし、忘れてはいけないこともある。吹雪で動けなくなった人を救いに降り積もる雪をかきわけてでかけた村人もあった。病人を励ましながら幾人もして夜道の峠を急いだこともあったにちがいない。重い荷を背に黙々と峠を登る行列も何度となくみることができたであろう。そこには自分とともに生きる他人があり、他人とともに生活する自分があった。厳しい自然なればこそ人々が強めた結びつきがあった。無言のうちに助け合い、励まし合う“愛”があった。

『時として科学の力は人間を不幸にする』とは、かって駒止峠で不慮の死を遂げられた人に対する追悼のことばである。静かに流れる伊南川、泰然と構える山々に囲まれて生活してみるとこのことばがなお一層重みを増して記憶されてくる。自然を師とし、自然を媒介として培われた人々の心と生活は深く積もる雪の如く簡単には消えることはないだろうが、いつまでも失いたくない大切なもののように思われる。

「不惑」ということばとは反対に、大いに迷い、自分の使命について深く考えさせられる新任地となった。

(県立南会津高等学校教諭)

 

「先生、本当はね」

 

尾平孝次

 

「先生、本当はね−−」

 

「先生、本当はね−−」

まっ黒に日焼けした顔で、いたずらっぼく笑いながらS君は言った。

あれは何年前の夏の日だったであろうか。郡の水泳大会のあとだった。四年生からがんばってきたが、身体に障害をもつ彼は、とうとうメダルを手にすることができなかった。小学校最後の夏だった。

「先生、本当はね。プールの中で必死に泳いでいると、応援の声なんてちっとも聞こえないんだよ。先生、知らなかったでしょ。

でも、不思議なんだよなあ。苦しくてたまらなくなると、聞こえるはずのない先生の声が、ちゃんと聞こえてくるんだよなあ。

 

 

 


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