教育福島0127号(1987年(S62)12月)-030page

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れではじめて接するのは家族であり、社会に出てはじめて「先生」と呼ぶのは、私たち幼児教育に携わる者であるということを思うと、身がひきしまり、緊張感を覚えます。教師である前に、人間を教育する人間。そう考える時、私たち自身が人間性豊かな人間でなければならないことを、ひしひしと感じているこのごろです。あいさつひとつにしても、心のこもった表情豊かなものでありたいと……。

 

「おはようございます」のあいさつで一日が始まります。二度とない一日一日を、子どもたちとともに精一杯がんばっていきたいと思っています。

茜色の夕日に包まれた秀峰安達太良山。その山麓の平和な里、塩沢。子どもたちの遊ぶ声がかすかに聞こえてきます。明日もまた、元気に子どもたちを迎えたいとしみじみ思います。

(二本松市立塩沢幼稚園教諭)

 

元気一杯な子どもたち

元気一杯な子どもたち

 

不可逆変化

 

梁取春光

 

と言い、方言の遣い方と言いあまりの見事さについ聞き惚れていたのだった。

 

先日秋田市で八橋運動公園から秋田駅へ向かう市営バスに乗って、見事な方言で話している女子高生の会話を聞いた。話の内容はところどころ理解できない部分もあったが大方理解することができた。他人の会話を立ち聞きするのはあまり趣味の良いものではないが、その会話のテンポと言い、方言の遣い方と言いあまりの見事さについ聞き惚れていたのだった。

私がなぜ方言に興味をもっかと言えば、方言こそが生きた会話のできる言葉だと思うからである。方言での会話では共通語では絶対にできない表現をすることができるし、事実を伝達するだけではなく心を伝える力を持っているように思えてならない。方言を共通語に置き換えてしまうと微妙な変化ができて本来の心が伝わり切れない。

方言はその地方の自然条件、社会条件に根ざし、何百年の歴史が創りだしたもので、その地方に暮す人同士が完壁に意志を伝達することを可能にするものであると思う。しかしながら、その方言を遣いこなすためには、その地方に生まれ育たなければむずかしい。私のように故郷と呼べる土地を持たぬ者は、このようにすばらしい方言を遣うことができないので、見事な方言での会話を耳にすると羨しく思いながら聞き惚れてしまうのである。

秋田市にはまだ方言が生きていた。しかもそれが若い人の口から出たものであっただけに私は何かほっとしたのであった。福島県では残念ながら、若者の口から完全な方言を聞こうとしてもむずかしくなってしまった。そんなことはないと思われる方もあろうが、私は敬語の消えてしまった方言は生きた言葉とは思えないのである。方言がその土地で生きているかどうかを知る手掛かりに、テレビやラジオのインタビューがある。アナウンサーに質問されて方言で堂々と答える地方では方言が生きていると見てよい。そうして見ると現在方言前線は山形県、宮城県あたりにかかっているようである。

化学で不可逆変化と言う言葉を使うが、文化もやはり不可逆であると思う。一度消えてしまった方言を再び習い覚えて後世に残すためにはかなり大きなエネルギーを必要とするであろうし、多くの人の同意を得られるとも思えない。方言は国の手形、現在残っているものだけでも大切にしてほしいと思う。そうでないと一部の研究家の手にカセットテープに録音されて残るのみと言ったことになりかねない。

去り行く秋を惜むように、移ろい行く方言文化を感傷的な気持で見送っている今日このごろである。

(県立郡山高等学校教諭)

 

分校の思い出

 

広田 穣

 

六号線から十二キロメートルほど阿武隈山地に入った渓谷にある分校でした。

 

昭和四十四年、広野中学校箒平分校に赴任することになりました。国道六号線から十二キロメートルほど阿武隈山地に入った渓谷にある分校でした。

前夜の風雨で落ちたのか、石を払い

 

 

 


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