教育福島0128号(1988年(S63)01月)-025page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

を誘う。そして槍に立つ。缶ビールを傾け、三百六十度のパノラマをほしいままにする時、北方雲上に巨大な岩塊が険難な登攀を約束して対持する。そしてまた剣へと登る…。

◇山へ…。黄金色に雲海を彩っていた残照も闇に沈み、一日の山行を灯の下でメモする。それがより困難で危険であり、長丁場のものであった時ほど闘志は駆り立てられ、次の山行への強い意志と、動かし難い登山プランを浮かび上がらせてくれるものだ。未知への遭遇は、己への新たな可能性への挑戦である。

◇山へ…。山頂への一歩一歩には、希望があり幸せがあり夢がある。喜怒哀楽がある。山に在る者は、高みを増すにつれて清新に感覚を研ぎ澄まし、自分を取り巻く自然の万物と対話を始める。名も知らぬ一本の野の花にも不思議と魅了され、歩みは止まり、語りかけ、時に手折って胸のポケットに、頬擦りさえも…。朝霧に濡れそぼつ純白のワタスゲが震える。そこから落ちる真珠の一滴に大海原を見る。そんな空想もはばからない感動的な出会いが、山には満ち満ちている。

◇山へ…。時に人は詩人となり、画家となり写真家となり、輝く美の瞬間を捕える。山の神秘をかいま見、一時敬慶な祈りを捧げて山法師となる…。

久し振りの山行に命のよみがえった感性は、みずみずしく、攻撃的でありしかも寛容でもある。それは「教育」という仕事に、生きて働く最高の妙薬となる。私は今、ここ明和の山々を、地元の人々の案内で歩き回っている。

(只見町立明和中学校教頭)

 

一つの道

山野辺藤夫

 

きの励ましになるものを思いながら、制作や栽培学習を取り入れてきました。

 

教職という道に身をおき、無我夢中ですごしてきた六年間。かえりみると試行錯誤の連続でした。そんな中でも毎年、生徒たちの心に何かを残したい。一つでもいい、人生の困難にぶつかったときの励ましになるものを思いながら、制作や栽培学習を取り入れてきました。

その一つとして今年は裁培学習をしました。菊の三本仕立てです。私が菊が好きであったのと、生徒たちとの語らいの題材として、また美しい菊の大輪を咲かせたいという理由からでした。菊の花は開花まで長期間にわたり手入れが必要です。さし芽から始まり、摘芯、夏の水かけ、誘引、支柱立てと生徒たちに役割と責任を与え、長続きすることを願いました。そのかいあって秋には見事な大輪を見せてくれました。「先生、こんな貧弱な芽から本当に大輪になるの」から始まり、「先生、アブラムシがついている。早く消毒しないと」「先生、小さな蕾がついたよ」「先生、先生、見て俺の花を」と日々はずんだ声が聞かれました。そうした声を聞き、満足そうな顔を見ていると、この栽培学習を通して生徒の心の中に何かが残ったのではないだろうかと思われます。また、私自身、生徒たちの姿をとおして、教育という道は菊の栽培とよく似ているのではないかという考えを持ちました。大輪を期待し日々丹精する。途中、風にとばされるかもわからない。病害虫でだめになるかも知れない。しかし大輪を夢見、手をかけ続けなければ、あの満足した笑顔を見ることができないことを菊の栽培を通して実感しました。

 

先日、教え子から便りが届きました。全員、元気でやっている様子や、二十歳になりそれぞれの道で頑張っている様子などが書かれてありました。しばし時の経つのを忘れ教え子たちの思い出にひたり、成長をうれしく思い、前途を祝福してあげたい気持ちで一杯になりました。自分で見つけたそれぞれの道で励めよと。

風が鳴る

はげめよと鳴る

風が鳴る

きびしく

一つの道を

すすめよと鳴る

私の好きな詩の一節です。私は、今、この詩のように受け持っている子どもたちを励ます風になりたいと思うと同時に、私を励ましている風が子どもたちであることを胸にこの道、先は長く、はてしない道のりを歩んで行きたい。

今日もまた、“はげめよ”と風が鳴る。(月舘町立月舘中学校教諭)

 

見事な大輪の菊を前に話もはずむ

見事な大輪の菊を前に話もはずむ

 

 

 

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。