教育福島0128号(1988年(S63)01月)-026page

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深さと広さ

加藤京子

 

おかげだと考える。与えられたこの機会に、感謝をこめて回顧してみたい。

 

「永年勤続」−−県立高校に三十年間勤務したことで、昭和六十二年十一月三日、百五十人の中の一人として表彰を受けた。遠慮のない友人は、「よくも飽きずに勤めたね」と言う。私もそう思い、多くのかたがたのおかげだと考える。与えられたこの機会に、感謝をこめて回顧してみたい。

就職難の当時を導いて下さった恩師の方々。「女でもよい」と拾って下さった校長先生。初めて家を離れる私に、食事付きの下宿を配慮して下さった事務長さん。「ポニーテールで赴任してきた」とからかい続けながら、公私ともに面倒を見て下さった大もの先生。寂しい秋、「この木の葉が全部落ちないうちは雪は降らない」と慰めて下さった司書さん。「波長の長い色彩を着ないで下さい!」と抗議してきた男子クラスでの哀歓は、今も懐かしい。会津は、私の第二の故郷である。

二年生まで担任した女子クラスを残し、母校へ転任した。恩師が多く居られ、家へ帰れば家族という環境で、ついぬくぬくと十余年暮らした。クラス会などで「優しい先生」と言われ、考えてみると大声で叱った記憶がない。大声を出す必要のない生徒たちに恵まれていた、と今にして思うのである。

いわゆるC地区からA地区への異動で、通信制高校という異次元の世界に飛び込む。まず、職員室に先生がいっぱいで生徒が居ないのにびっくり。日曜出勤すると生徒がどっと集まってまたびっくり。その一人一人が違う服装で、年齢・職業・居住地が皆ばらばらなのに三度びっくり。それがいわば始業式で、授業はこちらから出向く年二回計四時間(もっと多い教科もあるが)のスクーリングだけ、あとは渡してあるレポートが提出されるごとに添削して送り返すレポート学習なのである。

したがって、スクーリングはいわば一期一会、電話も命綱である。せめてレポートの余白に一行でも……とつけ加えた寸評が、思わぬ知己を作った。働きながら学ぶ人たちに、「野麦峠」や「漢をたらした神」は生きていた。

「徒然草」も、親として生活人として読まれた。雑草のような強さと謙虚さを持ち、思いやりを失わぬ美しい心にめぐり合い、平板に自己中心に生きていた私は感動した。教えるより教えられ、多くの友を得た、いわば心の故郷と言うべき学校であった。

四年間担任した人たちの卒業を見送り、女子教育の道にもどった。土曜・日曜を確保したくなったからである。通信制との絆は切れず、さまざまな人生を一間接的にせよ)知って、大抵のことには驚かぬ自信があった。ところが、二度担任をし、二度とも新しい体験をした。世の中は広いものである。

人生の深さ、世の中の広さ。三十年勤めてきて、その思いは深まるばかりである。これからも謙虚さとしなやかさを失うことなく、年々、新しい人たちとかかわって行きたいと思う。

(県立福島西女子高等学校教諭)

 

収穫祭

福羽俊光

 

る物、自分で作り、自分で採る」と言いながらいも掘りの作業をしていた。

 

十一月中旬、子どもたちは、二回目の収穫祭の準備をしていた。A男が突然、「先生、ぼくら、原始人になったみたい」と得意顔で言った。A男は、先日の学習発表会の劇の中で、原始人志願の役を演じている。劇中の原始人を思い出したのか、「原始人、食べる物、自分で作り、自分で採る」と言いながらいも掘りの作業をしていた。

いもを収穫するまでには、幾多の苦労があった。まず、畑作りである。三年間休耕し、荒れ野となった畑を借り、開墾作業から始めた。男子はスコップ、鍬を使っての土起し、女子は鎌で葛の蔓や竹の根切り、みんな慣れない作業に精を出し、手にはまめをつくり、全身に汗しての作業であった。作業を終え、汗を拭き、水道で水を飲む子どもらの姿には、ひとつのことをやりとげた満足感があった。ジュースばかり飲んで肥満のB君が「水道の水こんなにうまいとは思わなかった」と言う。スコップや慣れない鍬での畝立ても苦労の連続だったが、なんとか畝らしくなった。きゃしゃなC男、手のまめを潰し、じっと痛みに耐えている彼の姿には、いつもの弱々しさは感じられなかった。

思えば苗を植える日、四年生の理科の学習でのじやがいも栽培と勘違いしたのか、家からさつまいもを持ってきて、切りはじめたE子。「この朝顔の苗に根がついていない」と言ったB子。今は、笑い話として話をするE子、B子であるが、その時は、真剣に考えての行動であり、発言であったと思う。今はもう二度と同じ失敗はしないだろう。教えることも大切であるが、体験

 

 

 


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