教育福島0128号(1988年(S63)01月)-024page

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新学期が始まって間もない日のことである。経済学の授業の終わりにA教授に指された。

「何か質問はないかね」

「特にありません」

「もう一度、英語講座を受けてから、学部で勉強する方が良いと思うが」

私はあわてて日米の教育制度の違いを述べ、日本の学校では質問をしないのは、よく理解していることを意味しているのだという話をした。A教授は納得してくれて、その後も経済学部生として勉強を続けることができた。これはアメリカでの大きなカルチャーショックであった。またグループ・プロセス(討論)の授業では、時にアメリカ人学生の質問が聞きとれず、リスニングの力をつけなければと思った。

昭和六十二年八月に、西白河郡のMEF(文部省英語指導主事助手)であったパメラ・ライズナーさんをオハイオ州に訪ねた。白河RCの例会で彼女の講演の通訳をしたのが、友だちになるきっかけとなった。その後、敬意表現を扱った英会話のテキストを作ろうということで、定期的に打ち合わせをするようになった。

現在、彼女はオハイオ州の対日輸出促進事業のディレクターとして活躍している。そのうち会話のカセットを送って来たら英語クラブ等で使おうと思っている。

最近の英語教育の話題に、外国人教師とのティーム・ティーチングがあるが、文法指導をどうするか等の研究の前提として、日本人教師の英語力が問われているように思う。

日頃、生徒に英検を受けるように勧めていたが、初めて、英検一級と留学生試験(トーフル)を受けてみた。

案の定、トーフルが五百三十点、英検は、偏差値六十・一で不合格Aという結果だった。リスニングは満点だったが、英作文の点数が低かった。やはり日頃、英文を書いていないためである。

一年程前、英語部会県南方部会の講演を依頼するため、恩師の早大教授中尾清秋先生を研究室に訪ねた。話が一段落すると中尾先生は、次のように言われた。「先日、朝日カルチャーセンターの私の講座の案内文に、英語をマスターするには三十年かかりますって書いたんですよ。そしたら担当者が『あれは三か月の間違いではないですか』と電話をかけてきたんですよ」

私は笑いながらも、時折、中尾先生にあてた手紙の英語の誤りを慰めて下さっているのかな、と思った。

中尾先生は大学内では、いつも英語を話されているが、それは、学生に英語を話す機会を与えるためとのことだった。

英語教師としての姿勢を少しでも手本にしょうと思う反面、自分の英語力の伸び悩みにいらだちを覚えた。

中尾先生に、お礼を述べ、教育学部の校舎を出た。昼休みのためか、詩吟同好会らしき学生が練習していた。「ショーネンー、オイーヤスクー」

けだし名言である。

(県立棚倉高等学校教諭)

 

中尾早大教授による公開授業(棚倉高校にて)

中尾早大教授による公開授業(棚倉高校にて)

 

山へ

鈴木清二

 

々が、懐郷の情に触れ、盆・正月に一時帰省するがごときのようにも思われる。

 

◇山へ…。ある日突然、無性に山に登りたい衝動に駆られることがある。そんな時、往々にしてその日のうちにある山中を彷徨し、山頂に立つ自分を発見する。もう何度あったことだろうか。それは、まさに刹那的な行為であるように見えるのだが、考えれば、自然との触れ合いの渇望をいやす必然的なあるリズムを持った行為であるのに気づく。あたかも都会に移り住んだ人々が、懐郷の情に触れ、盆・正月に一時帰省するがごときのようにも思われる。

◇山へ…。山行の想いがムクリと頭をもたげる時、それはまた、日々の生活の中で時折見失いがちな人間的なものを回復すべく、山懐に我が身を置き、自己を解放することにより蘇生させようとする時のようである。悠久たる自然の懐は、広大で奥深く温かい。そこに五体を投じて、物見高く眼や耳・鼻などの五感を働かせながら山径を歩く。高みを稼ぐ一歩・一歩の山靴の音に、自分の存在を確かめながら山径を行く。いつもは執拗に絡み付く時間の流れはこの時ばかりははるか後方からついてくるのみ。

◇山へ…。のしかかる圧倒的な迫力で岩肌も荒々しくそびえる奥穂の絶籟に立つ。足元から延びる三千メートルの稜線上に、尖峰槍ケ岳は天を突き、我

 

 

 


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