教育福島0128号(1988年(S63)01月)-027page
ということが子どもの成長に大きな糧となることを、あの日改めて学んだように思う。
真夏日の中での除草も悪戦苦闘の連続だった。「雑草」と「いも」の区別がつかずいちいち聞きにくる子。間違えていも蔓を抜いてしまう子などもあった。いもの育ちを良くするための蔓返しでいも栽培の作業が終了した。
待ちに待った収穫の日、自分の顔ほどある大きなさつまいもを掘り、歓声をあげる低学年、そんなようすを横目に見ながら、いも蔓の後片付けをする高学年。どの子の目も輝いていた。
収穫祭の儀式も済み、何よりも待っていた試食会。落ち葉や枯れ木を集め、焼きいもづくり。煙で涙を流し、顔中すすだらけにし、やっとできあがった焼きいもをほおばりながら、A男が、「この焼きいも原始の味がする」と言う。E子もつられて「ぜいたくな心を持たない原始の味がする」と言う。C子もまけずに、「なまけ心を持たない原始の味がする」といい返す。すすだらけの顔には、畑作りの苦労など忘れてしまったかのように喜びだけがあふれている。
分かっていてもできない現代っ子の彼らに、この貴重な体験は大きな宝となったことだろう。
(いわき市立綴小学校教諭)
この子らの心にふれたい
橋本百合子
どうして私ばかりがこんな病気に!
どうして私ばかりがこんな痛みを!
どうして私ばかりが
こんなに悲しい思いを!
どうして!
こんな気持ちで入院生活を続けていた私は、ある日、自分の病室の近くにパジャマ姿で通ってくる何人かの子どもたちがいることに気がついた。その病室の前には、小さく『須賀川養護学校医大分室』と書かれてあった。そこは、病室ではなく、れっきとした教室だったのである。私は、このとき初めて、病気とたたかいながら勉強をしている子どもたちがいることを知った。
この教室に通ってくる子どもたちは、いつも元気いっぱいだった。少なくとも私にはそう見えた。病気であることの苦しみや悲しみなど全く感じさせない本当に美しい目をしていた。何かを乗り越えてきた強さのせいだろうか。その目は、私のすさんだ心をいましめるのに十分であった。そして、同時にその目は私に、この子らの心にふれたい、障害児教育にたずさわりたいという願いをうえつけてくれたのである。
あれから五年。幸運にも私には特殊学級という場が与えられ、五人の子どもたちとめぐり会うこともできた。
学校訪問があった日、指導主事の先生に、「おじちゃん大好き」と言ってだきついていったK男。私も何度だきつかれたことだろう。彼は、人を疑うということを知らないのだろうか。
母親が病気で入院してしまった日、「先生、どうしょう」と言って、私の腕の中でワンワン泣いていたT子。悲しい絵本を読んであげるたびに涙を流し、私がかぜをひいたと聞いては涙を流す。彼女の心の中は、いつも涙であふれてしまうのだろうか。
業間体育が終わると、いつでも周りに一、二年生がまとわりついてくる体重八十六キログラムのH男。「デブだなあ」「小錦みたい」……何と言われてもにこにこ顔でお腹をさわらせる。彼は、いったいいつおこるのだろうか。
学校に来て、まず最初に朝の洗顔をするK子。口ぐせは、「ありがとう」歯みがきをした後、歯を見てあげると「ありがとう」帰りに握手をすると、「ありがとう」今日の彼女の『ありがとう』は、どんな意味をもつのだろうか。
母は死に、父は遠くで働いているため、伯父伯母に育てられているS子。歌うことが大好きで、よく口ずさんでいる。てんかんという病気とたたかいながら、彼女の明るさは、いったいどこからくるのだろうか。
障害をもっている子どもたちには、その代償として、障害を乗り越えていくだけの力がそなわっているように思う。その力は、私にとって、とても魅力的である。だからいつも思うのだろう、『この子らの心にふれたい』と。
(須賀川市立小塩江小学校教諭)
練習中止
高橋誠
「練習させてください」
「私たち、今度からは、きちんとやりますから、どうかお願いします」