教育福島0128号(1988年(S63)01月)-043page

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細い根が張り植物体になっていく様子は、とても神秘的な美しさです。そして、この美しさは、私に今までの農業のイメーシを百八十度変えてしまうショックを与えました」

このような生徒の感想を大切にし、今後ともバイオテクノロジー教育充実のため、研究を進めていかなければならない。また、地域農業の課題も積極的に取り上げ、地域に貢献できる生きた技術として定着させていく必要があると思われる。

 

「リトグラフの技法」の教材化 width="68" height="96">

 

「リトグラフの技法」の教材化

 

いわき市内畢立高等学校

美術担当教員グループ

 

一、実践研究の趣旨

 

『リトグラフ』は、「平版」による版画の代表的技法である。しかし、リト(石灰石)の入手が困難なこと、石版用プレス機の備えがないこと、技法習得の機会も少なく教材としては鑑賞領域にとどめさるを得なかった。

石灰石にかわる金属板・紙が開発市販され、金属凹版用(エッチング)プレス機も利用可能となり、あわせて県教育センターにおける美術工芸講座「リトグラフの技法」(昭59〜61)を受講することができ、この研修を機に受講者で技法の一層の習得と教材化をめさし「グループ研究」をすすめたものである。

 

二、研究実践の構想

 

(一) 「リトグラフ」の歴史、原理、特徴の把握。

(二) 「リトグラフ」の技法、教材化の研究

※(一)(二)を通し、市販教材(版材・描画材)にかわる教材の開発もすすめる。

(三) 「リトグラフ」の「手引」作成。

※出版されている「技法書」は、専門的で難解である。誰にでも理解し易く利用できる「手引」をまとめる。

 

三、研究実践

 

(一) 「リトグラフ」の歴史、原理、特徴

十八世紀末、アイロス=ゼネフェルダー(ドイツ)によって発明され、リト(石灰石)を版材に使用したことから「リトグラフ」と呼ばれる。

現在では、金属板等も多く利用され、「水」と「油」の「反発作用」を応用した「平版」の総称となっている。

版画の技法としては新しく、金属凹版出現(十五〜十六世紀)後である。

版材に脂肪性・油性のもので描画することが「版づくり」の第一段階であり、「彫る・腐蝕する」など版材に凹凸をつける工程はない。したがって、描いたものに近似した作品を生みだすことができ、他の版画にくらべ自由な表現が可能である。それゆえ、多くの画家、彫刻家がこの版画に取り組み秀作を残している。

又、この技法の発明は、印刷術としても、「オフセント印刷」(版から直接刷るのではなく、ゴムブラケットに写し、転写)へと発展した。

 

〈日本のリトグラフ〉

○一八六〇年(万延元年)ブロシャより幕府に石版印刷機が贈られる。数年後、下岡蓮杖がアメリカ人から技法を学び、「家康の肖像」を制作する。

○一八七四年(明治七年)オソトマソリモリノク、シェ=ポラード(アメリカ)が招かれ、銀座に石版印刷会社を設立する。石版技術の伝承に貢献し、明治十年から大正初めにかけて石版印刷全盛時代となる。一芸術的なものと実用的なものと分離進行したヨーロッパと異なり、実用的、工業的発展であった)

○一九〇七年(明治四十年)石井柏亭、坂本繁二郎、森田恒友、山本鼎、織田一磨等(当時二十代)が同人誌「方寸」を刊行。木版、銅版、石版を刷りこみ、海外の作品を紹介。「創作版画運動」(浮世絵版画にみられる分業制〈絵師・彫師・摺師〉から全工程を作家自らの仕事とした個性の重視を主張)を展開する。

○一九一六年(大正五年)織田一磨「東京風景」「大阪風景」を制作。(石版を手がける人は、きわめて少なかつた。昭和に人ってからも四十年間余、同様であった)

○昭和四十年代、海外の大家の作品展が催されたこと、版画工房の設立、版材等の研究開発などにより、急速に広がり現在に至る。

 

(二) 「リトグラフ」の技法、教材化の研究

1、すりガラスを利用した簡易なリト

 

生長展の摘出・置床 width="216" height="134">

生長展の摘出・置床

 

 

 

 


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