教育福島0131号(1988年(S63)06月)-025page

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あった。

そして、その時の子どもたちのつぶやき、おどろきの声を耳にすることができた。

「これがけものをとる穴」

「こんなにたくさんの穴をほったもんだ」

「むかしの人のつかったもの」

「何千年前のものが土の中から」と目をかがやかしながら言っていた。

このつぶやきなり、おどろきを大切にすることが文化財を大事にすることにつながるのでは‥‥と、この子どもたちの姿こそ意義あるものと感じ、その目のかがやきに大きな期待を抱かせられた。

(県文化センター遺跡調査課長補佐)

 

故郷と教育

室井まゆみ

 

ないという、責任をも感じながら、私の田島中学校勤務が始まったのである。

 

田島中学校に着任して、はや二年目である。地元出身である私にとって、地元の学校に勤務できたことは、たいへん感慨深いことである。また、私を喜ばせてくれたのは、素朴で人なつっこくて、釣りの話が大好きで、休日にあちこちの川に出かけるという、頼もしい子どもたちが迎えてくれたことである。さらに目を周囲に向けると、小さいころ食べに行ったそば屋さん、買い物をした文房具屋さん、本屋さん、そして、その店の息子さんや娘さんとの出会いは、とてもなつかしいし、地元の教育をなんとかしなければならないという、責任をも感じながら、私の田島中学校勤務が始まったのである。

 

田島町は、山が間近かに迫っている。職員室の大きな窓から眺める光景は、四季おりおりの微妙な変化をうつし出してくれる。特に、日本三大祭りである七月の「祇園祭」は、私を含めて町民の心を最高潮にしてくれる。この祭りのために、正月早々から町をあげて準備にとりかかり、夏場にかけて万全を期すのである。本番では、子どもたちの果たす役割も大きく、稚児行列、「シャンギリ」という灘子の演奏、大屋台の上からのかけ声などに参加することは、田島っ子たちの誇りである。そんな風土の中で子どもたちはたくましく成長していく。

田島の地域性は、いわゆる「会津の三泣き」という言葉に代表されるように、転勤してきて山の深さに泣いた人も、去る時には必ず、離れ難いと泣いてもらえる厚い人情にある。また、私は幼い時から「大雪の年は豊作になる」と何度も言い聞かされて育った。田島の人々は、つらい雪をこんなふうに仲間を迎えるように受けとめてしまうのである。そして、雪をよけるのではなく、踏み固めて共存していくのである。こうした頑固で不器用な地域性を持っているが、温かい土地柄を理解し、最後まで子どもたちの味方になってやれる教師が必要である。南会津は、まだまだ地元の先生が少ない。腰を落ち着けてじっくりと教育を語る教え子を、今の出会いの子どもたちの中からたくさん育てていきたい。

一方、現代はマス・メディアの発達が著しく、瞬時にして情報が全国に行きわたる世の中である。南会津は文化的な経験の場が少なく、交流も密とは言えない。したがって、子どもたちの視野を広げ、どんな場に出ても、自分の意見を述べられるような人間形成にも努力していかなければならない。

このように、いろいろな面から、地域の中での教育について考えさせられる日々である。悩みながら、一人一人の子どもが秘めている可能性をあやまりなく拾い集め、ともに成長していきたい。そして、釣り竿を自転車につけて川へと急ぐ子どもたちの姿を愛していきたい。

(田島町立田島中学校教諭)

 

教え子から学ぶ

 

教え子から学ぶ

永野康明

 

一人一人が銅メダルを胸にかけて、記念写真の撮影をした時の一瞬であった。

 

「ヤッター」全日本ブロック別バレーボール小学生東北大会で、第三位になり一人一人が銅メダルを胸にかけて、記念写真の撮影をした時の一瞬であった。

その時、仙台の宮城県営体育館の見物席で目に涙をいっぱい浮かべ、心から拍手を送っていたのが、セッターH子の母親である。

H子とは、五、六年の担任として、また、女子バレーボールのコーチとしてつき合うことになった。

H子は、本校から十五キロメートルも離れた山間僻地から、朝は母親の車で一緒に登校し、帰りは、バレーの練習のため、夕方の最終バスで帰宅するという厳しい状況で通学していた。

H子は、学習活動面では、消極的であったが、明るくまじめで、何事も最

 

 

 


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