教育福島0131号(1988年(S63)06月)-027page
日記雑感
片野昭彦
進級の喜びに満ちた三十八名の子どもたちの視線に迎えられ、私にとって二十一回目の新年度が始まった。二日後の朝、全員に真新しいノートを一冊ずつ渡す。そして「今日からこのノートに、一日の中で心に残ったことを、なんでも良いから書いてみよう」と語りかける。「ああゝ、日記だあ」「いやだなあ」と、教室中がたちまち騒然となる。いやな顔を露骨に示す子、反対に笑顔でうなずく子。こんな子どもたちの様々な表情を見回すうちに、ふと心に浮かぶ顔がある。
F子。私がへき地から出てすぐに担任となった六年生の学級の中で、一際目を引く子であった。勝気で自己主張が強く、自分の思い通りに行かないと相手構わず怒鳴りっけるので、男子にも恐れられていた。もめごとの原因となることが多く、個別に話し合っても、自分の非は決して認めない。つい詰問調になると、口を固く閉ざしてしまう。数名の女子のほかは、誰も近づかず、クラスの雰囲気は、次第に気まずくなってきた。まだ二十代であった私は、早くまとまりあるクラスにしたいと焦り、夕方遅くまで校庭で一緒に遊んだり、休日に全員を連れて近くの山にハイキングに行ったりもした。しかし効果は少なく、F子のグループと他の級友との溝は深まるばかり。策に窮した私が、二学期になって始めたのは、日記による対話、というより対決であった。それまでの一、二行程度の寸評を改め、F子の生活から感じたことをストレートにぶつけていったのである。「F子さんの、今日の……という言葉は、相手の心を深く傷つけたと思う。あなたは、どうしてそんなひどい言葉を使ったのか」などというふうに。当然、F子の反発も強かった。私が三行書くと、五行かけて反論してくる。私も負けじと書くと、半ページになってしまう。こんな具合だったから、互いに一ぺージかけてやり合うこともざらで、たちまち赤ペンだらけの日記帳になっていった。こんなことを続ける内に必死に書き続けるF子の文の端々から自分のことを分かってもらいたい願いや、素直になれない苦しさが感じとれるようになった。そして三か月位たつうちに、徐々にではあるが、F子の表情や級友への接し方になごやかさが見られるようになり、子どもらしい笑顔ものぞくようになった。三学期になると、立候補して学級役員になり、謝恩会には、責任者として「呼びかけ」をしっかりまとめてくれた。うれしい変容であった。自尊心が人一倍強く、人前での注意などは逆効果となるため、日記での対話に努めたわけであるが、今となっては、懐しい思い出の一つである。
そのほか、出会いの日から三年間、一日も欠かさずに十二冊の日記を書き続けて卒業していったK子、級友に相手にされないさびしさをグループ日記に書いたのをきっかけに、交友関係ばかりでなく学習面でも大きな成長を見せてくれたM夫なども、新年度に日記帳を渡す度に思い出される顔である。
(いわき市立小名浜西小学校教諭)
小名浜の思い出
藤原常甫
今から二十五年前、昭和三十八年の思い出をここに述べる。
私は、この年三月に高校を卒業し、四月に小名浜にあるN工業株式会社小名浜工場に入社した。この会社は浜通り地区では一・二を競う大きな会社で肥料を製造していた。
三月三十一日、入社のため福島から鉄道を利用して小名浜に着き、会社の寮に入った。その夜は、二人部屋であったが、相手もいず一人ぼっちであった。初めて親もとを離れた記念すべき日であった。この夜に食べた柏餅の甘さは、今でも覚えている。家族との甘い生活から離れるため、甘い柏餅を最後に食べて気持ちを切り替えようとしたが、かえって親を思い出し、それに加えて入社の不安、寮生活への不安が重なって寂しさを押さえ切れず、