教育福島0131号(1988年(S63)06月)-028page
大声で泣いたものである。
次の日からは、大学卒のUさんと二人一部屋の寮生活に入った。Uさんは会社の中枢である技術室勤務で交代制勤務もなし、私は、製造部肥料課勤務の三交代制勤務である。
肥料課の仕事は配合肥料の製造で、作業服を着、ヘルメットをかぶり、スポンジのマスクをかけ、ゴム長靴をはいての機械操作だった。この勤務を終えて風呂に入り、退社するときの気分は、何とも言えぬさわやかさと労働からの解放感を味わったものである。夜勤の場合は、二時間程度の仮眠があるので、日中は時間的に余裕があった。この時間の一部分は、小名浜港近くの砂浜に行き海をながめたものである。
一年間海をながめて感じたことは、海にも感情があり、暖かさも、厳しさもある。それに加えて、やさしさもあるということであった。
おだやかな日の海は、波がゆったりしていて、海面はダイヤモンドを散りばめたような輝きをみせる。荒天の日の海は、黒ずんだ色、おそいかかるような幅の広い高い波で、岩壁に体当りしてくる。また、ある時は、私の困り事を聞いてくれたり、潮風で私の顔面をたたいて忠告してくれることもある。
季節によっては、多くの人を平等に楽しませてくれたり、海のルールを守らない者に対しては、飲みこんでしまうこともある。私の同級生も飲みこまれ悲しい思をしたことがあった。
海は荒れることもあったが、海岸に生きるカニや海草類を大事に育ててくれる母親のようなやさしさをもっている。海は、私にとっても第二の父であり、母であったと言える。
小名浜での一年間で、いろいろな体験をし、海との対話をとおして、人生の生きかたの一部分を学ぶことができた。翌年、大学に入れたのも三交代制の時間的なゆとりと海との出会いがあったからだと今でも感謝している。
教職生活二十年、小名浜での体験を生かして生徒の指導に当たってきた。今後とも、会社、仲間、生徒との出会いと体験を大切に、海に教えられたことを教育の場に生かしていきたい。
(泉崎村立泉崎中学校教諭)
つながりを求めて
慶徳秀夫
先日、道徳の副読本に目を通していたら、「三段論法」という文字が目にとびこんできた。そして、ふと、次のような三段論法が頭によみがえってきたのだ。
人間は、つながりを求めてやまない。子どもは、人間である。
したがって、子どもはつながりを求めてやまない。
これは、五年前に私が立てた子どもに関する三段論法だ。
このころから私は、子どもとの心のつながりを持つために「ノート」を使うようになった。
「ノート」というものは、特に孤独な人間にとってかけがいのない友人になるようだ。だから、直接教師と話をすることが困難な子にとって、「ノート」はとても有意義なものとなるにちがいない。教師にとっても同様だ。ふだん子どもと十分話す時間がとれない場合には、「ノート」は大きな効果をもたらす。「ノート」によって、子どもとのつながりをつくることができるからだ。
昨年、学習発表会予行の日に次のようなことがあった。「なぜ、私だけが、男役をやらなくてはならないのですか。私は、家に帰ってふとんの中でなきました。今日から、先生がきらいになりました」というようなことがノート三ページにわたって書かれたT子の「わかば」(心のノート)が、私の机の上に置いてあった。いつもなら、すぐ返事を書いてその日のうちに直接手渡すのだが、その日はなぜか、すぐ返事を書くことができなかった。私は、頭をハンマーでたたかれた思いだったのだ。T子は、「先生、私の気持ちをわかって」と毎日訴えていたにちがいない。しかし、教師である私は、その気持ちを全くくみとることができなかった。「T子ならだいじょうぶだろう」という軽い気持ちで配役を決めたのが、こういう大きな失敗につながってしまったのだ。その日一日、私は学校ではもちろんのこと、家に帰っても、T子のことで頭がいっぱいだった。「T子とどのように心のつながりをつくろうか」と考えた。結論として、T子と同じように、私も素直に自分の気持ちを「ノート」で伝えることにした。「T子さん、あなたの気持ちをわかることができなくてすみませんでした。ごめんなさい。先生は、あなたなら男役をきっとやってくれると思っていたのです」という返事を、私も三ぺージにわたって書いてやった。数日たった放課後、T子は、私のところへ来て笑顔で話しかけてくれた。心のつながりができたのだ。この「ノート」がなかったら、T子と私のつながりはどうなっていただろうか。「ノート」があったからこそ、T子とのつながりを持つことができたのだと思う。
これからも、五年生二十四名の子どもたちと心のつながりを持つために、「ノート」を活用していきたいと思う。
(三春町立中郷小学校教諭)