教育福島0148号(1990年(H02)07月)-026page
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が迫まってくるような感じを受けた時の喜び。「先生、聞いて"聞いて"ごと自分のまわりのできごとを逐一報告しようと集まってくる三十五人のかわいいクラスの生徒に接する時の幸せ。教師になって本当によかったと思うのです。
ある本で見た「先生は必ず生徒であった経験がある」という言葉を思い出します。私も今まで数多くの先生に育てていただきました。その中でも、生徒一人一人の可能性を引き出すために、その長所を伸ばすよう手助けしてくださった先生を時折思い出します。そういう先生方を見習い、生徒であった時の気持ちを大切にして、子どもの気持ちのわかる教師になりたいと思います。笑顔を絶やさず生徒に接することで、明るく伸び伸びとし、思いやりのある心豊かな生徒に育つよう援助していこうと思うのです。
今の現場では、校長先生をはじめ先輩の先生方に温かい教えをいただいています。新米の私のやり方にヒヤヒヤしながらも、「これから先は長いのです。思いどおり伸び伸びやってごらんなさい」と励ましたり、「ここははっきりと指導しなさい」と助言してくださったりする先生方がいます。また、子ども達は、次の時代を創っていく大切な存在であることを思い出させてくれる、頼もしい保護者の方々。恵まれた環境に甘えず、専門職としての勉強を深め、数々の体験をとおして一歩一歩前進していこうと心に誓う毎日です。
夕やみ迫まる、味噌能の高台の校舎から見る平市街地の夜景は、目にしみるほどの美しさです。一日の疲れを癒してくれ、一日の反省の上に、また明日も頑張ろうという活力を与えてくれます。今、ここで教師をやれる幸せをかみしめて、少しでも生徒の将来に寄与できればと思います。
(いわき市立平第二中学校教諭)
伊馬春部さんのこと
小野田敏之
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万緑の五月。
この時期になると時折、思い出すことがある。そして、胸がちょっとばかり切なくなる。もう十五年にはなる昔のこと。伊馬春部(いまはるべ)さんという劇作家のことである。小説家、大宰治の親友であった。
私が東京の学校に通い始めた年のちょうど今頃のこと。担任であり、また研究会の顧問でもあったA先生からある日突然、
「君、太宰をやってるんだろう。それならこれを、伊馬さんに届けてくれないか」
と、黒い鞄を渡された。鞄はその日、講演旅行に出かける伊馬さんのもので、昨夜A先生と一緒に食事をされた時に忘れたものであった。届けながら太宰の話を聴いてこいと言う。悪戯小僧の目をしたA先生は、鞄の中を覗きながら一本のドリンクの小瓶を取り出した。封が切られてあるので開けてみると中に入っているのはウイスキー。話のタネにと先生と二人、ちょっとずつ飲んだが、何となく寂しい感じがした。渋谷駅の食堂で待ち合わせ。緊張していた私にビールを飲ませてくれた。白髪の立派なご老人だった。
二度目にお会いしたのは、六月の桜桃忌(太宰の命日)。三鷹の禅林寺に太宰と森鴎外の墓を訪ねた。朝早かったので、静かな人気のないうちに墓参を終えた。しばらくすると太宰ファンが集まり始めた。家族や親戚の方々がお参りをする頃になると、墓の回りは黒山の人だかり。他人を押しのけ、墓石に登って中を覗き込む。何と常識はずれの行為であることか。
一時間後、寺の一部屋で家族や親戚の方々と一緒に、太宰の思い出を聴く会が持たれた。親しかった友人の話が続く中、突然若い参加者の一人が騒ぎ出した。こんな集りを故人は望んでいないと言うのだ。みんなびっくりして女の子は泣き出す始末。人の気持ちを考えられぬ若者のせいで、会は目茶苦茶になった。座って一部始終を見ていた伊馬さんは、「君何だね、あれは…」と怒りに顔を染められた。私も何だか胸が痛かった。
「私は一度行ったきり。二度と行こうとは思わないよ。気をつけて行ってらっしゃい」
A先生のいっていた言葉が思い出された。
最後にお会いしたのは次の年だったろうか、大学の講演会においでいただいた時である。「思い出の太宰治」とかいう題で太宰との交友関係や、その人となりをお話なされた。ご高齢であったためでもあるのだろうか、何度もハンカチで目を覆いながら、そして時には働哭されながらの講演だった。「あいつのどこが無頼派なんだ」という言葉が忘れられない。
東京も今頃は暑いことだろう。でも東京の初夏は嫌いではない。この季節になると時折思い出すことである。
(大熊町立大熊中学校教諭)
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