教育福島0158号(1991年(H03)10月)-025page
となっている。
「先生の授業は楽しいね。」
などと生徒に言われれば馬鹿にされているのかと思い、
「先生の授業は明るいね。」
などと同僚に言われれば見られたかと思い何となく落ち着かない。
この方法には問題があるのはわかっている。生徒達の関心を集めてから、いかに彼らに活動させるかが課題であることもわかっている。しかしながら、しばらくの間は道化師を演じていかなければならないようだ。
(県立梁川高等学校教諭)
感動との出会い
矢村富美子
新鮮な驚きやたくさん感激することに出会いたいという思いが、私を旅に、山にと誘い出してくれます。できる限り興味のもてる人に出会いたいと思い、できる限り様々な花の眺めに出会いたいと思う。
小学四年生の夏休みに自由研究で選んだ「植物採集」は、昆虫嫌いの私を野山に誘い込むほど魅力的でした。ニエリンソウのお花畑、ツリガネニンジンの群落、素敵な名前のジュウニヒトエ、ヒトリシズカ、おかしなネコノメソウ、ネムノキ等…けなげにもそれなりの知恵を持ち生きているのです。そのことを知った小学生だった私の感動は、今だに色あせることなく鮮明です。
今年の夏に見た雪渓の圧倒される不思議な白さや、確かな秋の訪れを無言で知らせる紫の花達の姿、酸性度の高い養分の少ない条件の厳しさに耐え、愛くるしい姿を見せてくれるキンコウカやモウセンゴケの花に、自然の造化の妙には、人の力の及ばぬことを改めて思い知らされるのです。そして生命の神秘さを全身に感じるのです。人も花も共に、命が何のためにあるのかを考えさせてくれるとても魅力ある存在です。
憧れていたマツムシソウの大群落の中に身を置いた時、何と心が安らぐことであろうか。これが自然の大きさなのであろう。この自然の風情に、また感激する。旅での感激が日頃忘れがちな大切な心のゆとりをたくさんつくりだしてくれました。
旅先で出会った人は、無事を心配して便りをくれます。それらは、気づくことに、やさしさに疎くなっている私を反省させるには余りある感激との出会いです。
多忙という逃げ道をいつも歩いてしまって、大切なものを失っている私に、子ども達を受け入れる心のゆとりを与えてくれました。同時に子ども達の小さな胸の中の痛みに気づいてあげられるように思えるのです。
中堅と言われる年齢になりつつあるが、気持ちは、あの頃を忘れたくないのです。所が変われば目に映るもの全てが新鮮に見えるのは当然だが、生活をしているこの地でもいつも気づいて感動していたいものです。
何度となく訪れた大好きな尾瀬は、十月頃には艶やかに輝いていた湿原も、降霜のたびにその光を失い、限りない感傷を誘うあのセピア一色の世界に塗り変えられていくのです。その中に身を置いた時、私は何を感じるのでしょうか。きっと、小学四年生の頃と同じように感動して、その頃、再び忙しさで盲目になっている自分に気づくのでしょうか。
(白河市立白河第五小学校教諭)
Y君への手紙
渡辺正誼
Y君、その後お元気ですか。教師になり日々がんばっているとのこと、喜んでおります。
夏休みも終わり、生徒も又、学校に帰ってきました。教室のざわめき、鉛筆の音、スポーツをする身体の躍動、すべてが自然と調和しひときわ