教育福島0194号(1996年(H08)04月)-025page
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「アイだよ。鼻はノウズだよ」
隣で聞いていた小学校四年生の長男が、それぐらい自分も知っているという口ぶりで、次々に体の各部分の名前を弟に質問すると、二男は、こともなげに英語で答えるのである。
長男は、ちょっと悔しそうな表情を見せたが、どうも弟のほうが自分よりたくさん覚えていることがわかり、脱帽とばかり、
「すごいなあ。お兄ちゃんに教えて。あごは何ていうんだっけ」
と、弟に教えてもらっているのである。二男が通っていた保育園では、週一回英語の歌やあいさつなどを教えている。幼児に教えるには、歌や遊びなど身体表現を通して、楽しく、しかも自然な形で覚えられるように工夫していたようである。
「グッモーニング。ハウアーユー」
「ファインサンキュー。アンドユー」
これは、私の勤務する表郷小学校の朝のあいさつである。とはいっても、まだ、オーストラリアから招いたAETのスザンヌ先生がいらっしゃる月・水・金曜日の朝だけであるが…。
本校は、本年度から三年間、「英会話等に関する研究開発校」として、文部省から指定を受けることになった。本年度は、教科として週一時間の「英語科」を特設してAETのスザンヌ先生とHRTとのTTの授業を行うことになった。
先日、一年生と五年生のクラスで本校初の英語の授業が行われた。
一年生の子供たちは、幼稚園の時から、スザンヌ先生に週一回ずつ英会話を習っていたこともあり、元気に歌を歌ったり、踊ったりして、本当に楽しんでいるようであった。
五年生はというと、やや恥ずかしがりながらも、スザンヌ先生の発音をまねようと真剣に取り組んでいた。
中教蕃では、第一次答申に盛り込む内容として、「外国の文化に対する理解と尊重する態度とともに、外国語によるコミュニケーション能力の育成」を指摘している。また、外国語は、教科として扱うのではなく、総合的な学習の時間や特別活動などで取り扱うのが望ましいという方向にある。果たして今後どのような方向に向かうのか、注目したいと思っている。
いずれにしても、私たちと子供たち両方が英会話が好きになり、「おはよう」のあいさつとともに、「グッモーニング」が気軽に言えるようにしたい。
(表郷村立表郷小学校教諭)
意義ある「無駄」
小山田久美
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先日、生徒の一人にこんなことを言われた。「僕は入試科目に漢文がないので、漢文の時間は無駄なんです。」彼は真面目で、言われたことをきちんとこなす生徒である。だからこそ、受験に関係ない漢文が負担に思えてそう言ったのだろう。進学校の我が校にあってはそれもやむを得ないか。そう思いつつ私は答えた。「それは良かった。受験勉強じゃなく、本当の漢文のおもしろさが分かるチャンスだよ。」
高校時代、私は数学が苦手で嫌いだった。計算能力にも数学的勘にも恵まれていないらしく、問題を解くのに人の何倍も時間を費やしていたのだ。「なんて無駄な時間だろう。」とイライラせずにはいられなかった。だが、ある時数学の先生がこんなことをおっしゃった。「数学の学習は、無駄の繰り返しだ。無駄の繰り返しが真の数学の力になっていくんだ。」私はそれを聞いて肩の力が抜けた気がした。そしてどんなに時間がかかっても「これが真の数学の力をつくっているんだ。」とあまり気にならなくなり、問題を解いていくプロセスを楽しむことを知った。どこまで「真の力」がついたのかは怪しいが、精神的にゆとりができたし、数学が嫌いでなくなったのは事実だ。
無駄は悪とされている。無駄は省かれた方が良く、効率の良さは重視される。だがその無駄なものの中にも価値が存在することがあると思う。例えば通信手段である。時間と労力の無駄を省くために、手紙から電話、さらにFAX、パソコン通信と移り変わってきたが、人間らしい暖かさ、ゆとりといったものは、どんどんなくなってしまったではないか。
漢文を無駄だと言った生徒にこの気持ちがどこまで伝わったのかは分からない。彼は「確かに句法とか覚えなくていいなら、漢文って書いてある内容は結構おもしろいですよね。でも、読んでいる暇ありませんよ。」と言って帰って行った。やはり時間の無駄か。私も教師になってやっと一年。無駄なことをやっては、その度に自分に腹を立てたり落ち込んだりしてきた。でもそんな時あの
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