教育福島0202号(1997年(H09)04月)-032page
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心に残る一冊の本
乱読の果てに
南会津郡只見町立只見小学校長
星弘明
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私の読書はその時々の興味関心にまかせた手当たり次第の乱読で再読はほとんどしない。
学生時代は、齋藤喜博を頂点とするいわゆる民間教育系の本を漁り、「学校創りの記」で小学校教師として生きる意志を固めた。
教員になってからは、授業がうまくなりたい一心で国語教育関係の本を読み漁った。西郷竹彦、青木幹勇、渋谷孝、市毛勝雄、大久保忠利、大村はま等々、諸氏の著作を渉猟する中で、私自身の国語授業論を形成する模索の時期が十年も続いたろうか。
そこに、向山洋一氏が彗星の如くに現れ、私の関心は一時教育技術に大きく傾いた。しかし、程なく、技術は所詮それを支える哲学なしには何の意味も持たないばかりか子供の心を操り弄ぶ手綱に堕してしまうことに気付いた。
子供が生き生きと目を輝かして学習に取り組むためにはと改めて考えたとき、以前読んだシュタイナー学校や附属長野小学校の教育と、村井実、林竹二、佐伯胖、梶田叡一各氏の著作群がよみがえってきた。これらは、教科書中心の授業観を突き崩し、もっと広い目で子供、人間、授業を考えさせてくれるものである。
また、最近、心理学の進歩が目覚ましく、人間の尊厳を根底に据え、我々教師の人間観を根本から変える力を持つようになった。
「無気力の心理学」「知的好奇心」「人はいかに学ぶか」(いずれも中公新書)などはさしずめその代表であろうか。
折しも「父性の復権」が現れた。これは日本が許容社会になり、価値体系崩壊の危機に瀕した今、最近とみに影が薄くなった父性の復権を訴えた画期的な著作である。父性と母性のバランスの中で子供は独立した個人として育つと語るこの本は、価値観が混迷している現在だからこそ我々教師が襟を正して二読三読すべき本である。
本の名称:父性の復権
著者名:林道義
発行所:中央公論社
発行年:一九九六年五月二十五日
本コード:ISBN四-一二-一〇一三〇〇-X
「尾瀬」−−先人の魂にふれる
県北教育事務所社会教育主事
竹田正彦
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春夏秋冬の自然の懐に深く分け入り、その表情豊かなもてなしを楽しむ私にとって、「尾瀬」は特別な存在です。
山歩きを始めたばかりのころは、それこそ「遥かな尾瀬」で、神秘さにあこがれながらも、簡単には行けない聖域でもありました。後年、やっと念願の地に立った時の心の震えは抑え難いものでした。
その後、尾瀬の自然を守る運動に参加し、毎年のように訪れるようになりましたが、そのきっかけのひとつが尾瀬を愛し続けた先人の著作との出合いです。
数ある中でも、日本の自然保護運動の原点となった武田久吉氏の作品を紹介します。
氏の父親は、幕末と維新の動乱期に活躍したイギリス公使アーネスト・サトウです。氏は、学生時代から植物や登山に興味をもち、日本山岳会の創立に参加した明治三十八年に、初めて尾瀬を訪れています。二十二歳の時です。
本書は、総論として「尾瀬と奥鬼怒」、三十八年の紀行文「初めて尾瀬を訪う」、大正十三年紀行文「尾瀬再探記」、そして同行した館脇操氏の「尾瀬をめぐりて」に、昭和に入ってからの「春の尾瀬」「秋の尾瀬」の二編を加え、構成されています。
原文は美文調の文語体で発表されたものですが、本書は、後年新たに平易な口語体でまとめたものですので、読みやすくなっています。
内容は、日光から金精峠を越えて尾瀬に入る苦労、学術的にも貴重な尾瀬への賛美、そして開発と利権の犠牲にならんとする尾瀬の将来への憂慮などが、膝まで没する湿原を自らの足で踏破し調査した全記録を貫いています。
中でも、尾瀬山人平野長蔵翁との出会いや、意気投合して談論風発する場面などは、心中の笑いを押さえながらも共感するところではないでしょうか。
本の名称:尾瀬と鬼怒沼
著者名:武田久吉
発行所:平凡社
(ライブラリー)
発行年:一九九六年三月十五日
本コード:ISBN四-五八二-七六一三八-〇
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