研究資料分類基準G2-04高等学校社会科「現代社会」の研究-079/170page

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感覚で,開発のスピード化をめざしたのである。要するに,むかしと同様のつもりで使用するわけである。いくら植物の繁茂に適した自然でも,これでは補いがつかない。とうとう山はつぎつぎに坊主とされ,乱伐にともなう公害問題がおこってきたのである。
そっくりおなじことが河川についてもいえると思う。もともと日本列島は,中小河川のよく発達した土地であり,そこをたいへんきれいな水がゆたかに流れていた。日本人のあいだには,川というものはほっておくと無尽蔵にきれいな水が上流から流れてくるという常識がそだった。したがって,ひとりでにすぐまたもとにもどるというわけで,汚物のたぐいを何でも河川へすてる習慣がでてきた。台所のごみを少しずつ流していたあいだは,たしかにそのとおりであった。川上からどんどんあたらしい水が流れてきて,汚物をことごとく海へ押しだしてしまっていた。
だが,やがて都会には,つぎつぎに工場群がたちならんだ。それを同じような感覚で,浄化装置も何もつけずに,廃水液がことごとく河川にすてられるようになった。こうなってはさすがの日本の河川もとうてい追いつくわけにいかない。大都会の河川はほとんどがドブ河になって魚も住めないか,あるいは魚は住むけれども,これが有毒化してしまってたいへんな被害をもたらす破目になったのである。

(『米食,肉食の文明』筑波常治著 NHKブックス P35〜36)


資料4) 自然保護の考え方
すこし前までは,自然保護というものは,珍しい生物や美しい景色の場所を保存したり,木が伐られると殺風景になるし,鳥のすむところがなくなってかわいそうだから,木を伐るのをやめることだというぐらいの考え方が大半を占めていた。しかし,最近,人間も自然の中の生物の一つであり,自然が亡びるときには人間も生きていけないという認識のもとに,自然保護が叫ばれるようになって,ようやぐその水質にふれるようになった。植物―動物―微生物という生態系の仕組みの中で,植物が欠けても,微生物が欠けても,人間という動物は生存できないのである。従来のような人間優先の考え方,人間は自然の外側にいて,自然を自由に操れるとした考え方は,否定されなければならない。
さて,現在,自然保護ということばの使い方には,かなり混乱が見受けられるが,これは二つの考え方を,単純に自然保護ということばで表現しているためである。
考え方の一つは,フ゜レザーべーションと呼ばれるもので,自然のあるがままの姿を,人手を全く加えずに,そのまま文化遺産的に「保存」し,また,人為の入らない自然での科学的研究などに利用しようというものである。このやり方では厳重な保存のための管理が必要で,あまり広域的には適用できない。もう一つは,コンサーベーションという考え方で,自然の調和を保つことを基本としながら,その中での産業や,水資源確保,レクリエーションなどの公益的な効用を含めて資源を「賢明に利用」しようとするもので,明日の資源を守りながら,自分たちの今日の生活にも「資源」を活用していこうというねらいをもっている。この考え方では,自然の維持のために,人手は必然的に加えられ,かなり広域的な自然が「保全」されることができる。両者はともども重要な意義をもっていて,平行して実施されることが望ましいのはいうまでもないが,広域的な施策を考えてゆくうえでは,コンサーべーションの立場をとるのが当然であろう。

(『環境の科学』NHK市民大学叢書 P227〜228)


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