研究資料分類基準G2-04高等学校社会科「現代社会」の研究-085/170page

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資料2) 第二の石油危機と石油流通機構の変化
第二の石油危機は,1979年当初のイラン革命,続くイランの石油対米輸出の全面中止,その後の相次ぐ石油価格の値上げである。1979年12月ベネズエラのカラカスで開かれたOPEC55回総会は,穏健派のサウジアラビアなどと,強硬派で大幅値上げを主張するイラン・リビアなどの意見調整ができず,「価格は決めない」という異例の結論となった。しかし,総会直前の12月13日に,サウジアラビアなど4カ国が18ドル原油を24ドルに引き上げたのをはじめ,ほかの国も追随していたため結果は大幅な値上げとなった。しかも,上限価格は野放しであるからこの1年で原油価格は2倍以上となった。中には1バーレル30ドルを超す原油価格も現れた。 低下するメジャーの支配力


(注) 棒グラフ内の数字はOPEC総生産に占める原油取得量のシェアを示す。

さらに,1980年6月アルジェリアの首都アルジェで開かれたOPEC57回総会では,1)OPEC基準原油,アラビアン・ライトの価格の「上限」を1バーレル37ドルとする,2)油種の間の格差を最大限5ドルとする。3)7月1日から実施する,と決定した。つまり,これまで野放しだった原油価格は1バーレル32〜37ドルの価格帯の間に一応おきまることになったわけである。
第二次石油危機において現れたもう一つの大きな変化は,国際的な石油流通機構の変化である。従来は,産油国→メジャー(8大国際石油資本)→消費国のルートが確立していたが,イラン革命でイラン原油の積み出しが急減し,わが国の石油会社へ原油を供給していた国際石油資本は契約量をつぎつぎと削減した。とりわけ資本関係のない民族系石油会社は大幅な削減を受け,その穴をうめるために独自にスポット原油(臨時・応急の目的で買いつける原油)や直接販売(DD)原油を買わざるを得なかった。
当時,原油確保のために毎日のように産油国に出かけたある民族系石油会社の幹部は,最近の産油国との交渉を「終戦直後の食糧買い出し」にたとえて次のように語っていろ。
「戦後の混乱期にコメやイモを手に入れるために,満員電車に揺られ,なけなしのカネをはたいても農家の主人はマルコウ(公定価格)では決して売ってくれなかった。奥さんの晴れ着や一張羅(ら)の背広をカネといっしょに差し出してやっと取り引きが成立する。
メジャーから原油供給を切られた民族系石油会社と産油国との関係はこれとそっくりだというのである。当時のマルコウに当たるのが産油国の政府公式販売価格(GSP)だが,これを払うだけで原油を手に入れることはもはや不可能に近い。農家ならぬ産油国に頭を下げ,プレミアム(割増金)とかサインボーナス(契約時の謝礼金)といった上乗せ金を揃えて,やっといくらかの原油を売ってもらうのが現状だ。」
日本エネルギー経済研究所の調査によると,メジャーを経由せずにわが国に入るDD原油やGG(政府間取引)原油のうち,ほぼ65%がこうした上乗せ価格を付けられており,1バーレルにつき5ドル程度を余分に払っていろ勘定になるという。DD原油やGG原油はわが国の輸入量の約45%を占めているので,わが国の輸入原油には1バーレルにつき平均1.5ドル程度の上乗せ金が付いていろ計算になる。

(「朝日新聞」1980.6.7,「日本経済新聞」1980.8.24ほか)


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