研究資料分類基準G2-04高等学校社会科「現代社会」の研究-098/170page
資料1) 東京空襲(昭和20年3月10日)3月10日,空襲警報が発令された零時15分から同警報解除の2時37分までの2時間と22分―正味142分間に出た被害の規模は,後の広島や長崎に投下された原子爆弾の惨劇を除けば,まさに史上空前のものとなった。死者8万3793名,傷者4万0918名,罹災者100万8005名,焼失した家屋26万7171戸,半焼した家屋971戸,全壊12戸」半壊204戸,計26万8358戸―と警視庁は発表した。
ただし,以上の数字は,3月10日被害の実数とはいえない。区役所も焼け,戸籍簿まで灰に、してしまったところもあるので,消防庁も,帝都防空本部もそれぞれ独自の調査によろまちまちの数字を残すよりほかになかった。したがって警視庁の資料もまた一つの記録としかいえないだろう。
なお消防庁の記録によれば,この夜,B29から投下された鉄塊のうちわけは,爆弾100キロ級6個,油脂焼夷弾45キロ級8545個,2.8キロ級18万0305個,エレクトロン1.7キロ級745個。その中心地での密度について,「戦争中の暮しの記録」(『暮しの手帖』)は,つぎのようにしるしている。まずまわりを焼いて
脱出口を全部ふきいで
それから その中を
碁盤目に 一つずつ
焼いていった
一平方メートル当り
すくなくとも三発以上という焼夷弾
みなごろしの爆撃
・・・・・・被害は,主として東京の下町地区に集中し,とくに大所区,深川区,城東区,浅草区の四区は,ほとんど全滅に近い決定的な被害を受けた。日本橋区,向島区が,これにつづく。
当初,東京都の防衛本部は,関東大震災の経験に学んで,万が一の場合を予測し,1万個の柩を用意していたが,とうてい足りるものでないと判断し,方針を変えて,トラック,荷車,担架などで,死体を人眼につかぬ公園にあつめるように指令した。200体から3000体が一度に入る深い穴をいくつも堀り,火葬することなく,そのまま仮埋葬することにした。錦糸公園1万3000体,上野公園8400体,隈田公園4900体など,下町地区とそれに隣接した地域の公園と空地は,みな一時しのぎの墓地に早変りしてしまった。本所区などは,実にその9割6分を一挙に焼失し,ほとんど無人の町と化し,全東京35区のうち3分の2にあたる26区が,なんらかの被害を受け,37万世帯が住居をうしない,42万坪(約140平方メート)の家屋面積が焼失し,これで「帝都」とよばれた首都・東京の約4分の1が見わたすかぎりの焦土となった。
一夜あけた"川向う",の下町地域は,見るも無残な廃櫨と一変していた。人びとの生活は崩壊した。焼失した町は,またいつの日か取りかえすこともできるが,二度とよみがえってくることのない死体が,路上を,運河をうめつくし,橋の上にまで散乱していた。(早乙女勝元著『東京が燃えた日』岩波書店 P161〜164)