研究資料分類基準G2-04高等学校社会科「現代社会」の研究-122/170page

[検索] [目次] [PDF] [前][次]

資料1) ムラの都市化と祭り

一種の民族移動にもたとえられるような農山村から大都市への移住民は,一時的にもせよ地域単位の共同体感覚を見失ってその代償にさまざまな祭りの擬似的現象にまきこまれてきた。それらは例外なく多数の人びとを群集して祭りに似た非日常的興奮と開放的な共感をかもし出す催しや事件である。
国家的規模の祝祭行事には,昭和39年の東京オリンピック大会と45年の大阪万国博覧会とがある。これらが国民大衆を一体化して祝祭的に魅了することに成功したことは,賛否を問わず衆目の一致するところである。もう一つ年中行事化した国民的祝祭には,夏の甲子園における全国高校野球選手権大会がある。登場する高校の地元における郷土意識の異常な高揚もさることながら,甲子園球場を聖地化して無心に白球を追う純白無垢な若者たちの神憑り的な球技に,日常を忘れて祝祭的に共感し合う人びとが球場の観客ばかりでないことは,全国規模のテレビ視聴率が語っている。
伝統的な年中行事で,もはや家や近隣社会ではハレの交歓を実感できずに,全国的な企画で代償するにいたったものに正月がある。その主役はNHK・TVの企画だが.かつて家ごとに行なった大晦日の夜籠りと歳神迎えを,テレビで放送する「第九交響曲」の演奏や「紅白歌合戦」で代用し,「行く年くる年」の除夜の鐘を聞いてから,さて初詣でには地元の氏神を無視して賑やかに人の群集する有名寺社に出かける,といった具合である。
こうした風俗的現象に見られる日本人のお祭り好きはコマーシャリズムも見逃しはしない。近代商法の代表であるデパートや集合店舗ビルは,かつての祭りにおける市や盛り場の再現であり,その群集的開放感を演出して客の購売欲を刺激することに成功している。各地の商店街も負けじと,客寄せの共同企画には,きまって「

○まつり」と銘うって普段とは違う雰囲気をかもし出そうとする。最近では外来語をカナ文字化して"フェスティバル"とか"フェート"と言い替える例も多いが,要するに祭りへの郷愁に媚びての見えすいた商業主義に他ならない。
だが反面,これほどに利用価値のある祝祭のイメージや多面的な祭りまがいの再生産が現代社会に絶えないということは,いかに都市住民が祝祭的交歓に魅力を感じているかを物語っているのではあるまいか。もちろん,こうした祭りの風化現象はその場の一時しのぎにすぎず,実はもっと深いところで共同体的な実存感覚を模索しつづけているのではないだろうか。
その徴候の一つが,近年における各地伝統行事の復活と新興都市における市民祭りの輩出である。しかもそこに共通する動機は,自分たちの住む町で自分たちのコミュニティ感覚を再建しようという意欲である。
その社会的背景には,前述のように急激な都市化による社会移動がようやく収束段階に入って,それなりに落着きの気配を見せてきたことがある。ある意味では,明治近代化に始まった社会全体の都市化が完成期を迎えて,質量ともに都市文明が定着してきているともいえよう。
その理由は,明治以来の資本主義的経済成長が一貫して農村の疲弊化を足場にしてきており,農家の次,三男は口減らしで都市に出稼き奉仕するパターンがくり返されてきたことによる。

(『ジュリスト増刊総合特集18』,薗田稔「祭りの喪失と復権」)


[検索] [目次] [PDF] [前][次]

掲載情報の著作権は福島県教育センターに帰属します。