研究資料分類基準G2-04高等学校社会科「現代社会」の研究-139/170page

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資料1) 生きることと考えること

この世に生まれてきたものとして,私たちは誰でも,生涯を生きなければならない。境遇や環境や条件はちがっていても,みな自分の一生を生きなければならない。生まれてきた以上,死ぬまでは生きなければならない。生まれてきたのは自分の意志でなくとも,生きるのは自分が生きなければならない。これは不合理でも,みとめないわけにはいかない出発点だろう。また,私たちは,生きていく上でなにも思わず,なにも考えないわけにはいかない。まだ幼かったり,あるいはただ漠然と生きたり,なにかに心を奪われて夢中に生きたりして,とくにものを考えないで過ごす時期もあるだろう。しかし,そういう時期があっても,それがいつまでもつづくわけではないし,それに,とくにものを考えていなかったように思われた時期でも,あとでふりかえってみると,そのときどきに断片的には多くのことを感じ,思っていたことに気づくものだ。無念無想ということばもあるが,これは,思慮や整った考え方に欠けていることを,でなければ私心や妄念を去った状態をいうのであって,なにも考えないということではない。
だから,あらためて思索とか思考とかといわずに,思い,考えるということを広くとれば,職業や境遇の区別なく私たちの一人一人にとって,思い,考えることと生きることとは,ほとんど切りはなすことができない。人間として生きるかぎり,思い,考えることは生きることの一部分であり,人間として生きている活動そのものであるとさえいえる。

(中村雄二郎著『哲学の現在』岩波書店 P2〜3)

資料2) 肉体的思索と哲学的思索

肉体的思索と哲学的思索これまで見てきたテクノロジー,マス・コミュニケーション,ビューロクラシー,マス・ソサイエティーは現代社会という巨大な建物を支えている四大の柱です。ところで,これらは人間の疎外を生みだす大きな要因でした。私たちがこの社会に住まわなければならないとすれば,疎外という状況との対決を避けることはできません。事実,近年,疎外の克服ということが,政治・経済に限らず文学などの領域においても,しばしば論議されています。より身近な例をひけば,「最近の青年は,ものを考えない」とか,「衝動的に振舞う」とか,「肉体で思索する」などという批評がよく聞かれます。しかしこうした傾向は,何も青年だけのことでなく,現代人一般に見られることなのです。ただおとな以上に敏感な青年に,いや現代っ子といわれる子供において,もっとも顕著にあらわれているにすぎないのです。
こうした思考の画一化,即物化,思考の貧しさは,現代人のものの考え方から人間的なものが疎外されていることを示しています。私たちが真剣に生きようとする限り,何事によらず自分自身で納得のゆくまで考える必要があります。もし,自分で考えるのが面倒くさく,他人に考えてもらい,指示してもらうという態度をとるなら,それは,ちょうど恋愛の相手を誰にするか,いつ結婚し,何人子供を生むかといったように,自分の人生を他人に決めてもらうのと同じではないでしょうか。本来,自分の人生は絶対に他人に代わってもらえないものです。ですから,自分の置かれた場所で,自分自身で徹底的に考えぬき,えらびとり,決断することが大切なのです。

(倉岡正雄他『現代に生きる思索の条件』福村出版 P11〜12)


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