研究資料分類基準G2-04高等学校社会科「現代社会」の研究-145/170page

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資料2) 花は萎れるがゆえに美しい

何年か前になりますが,ある成人式の講演を頼まれました。私はいつも講演の出だしは考えずに会場に行くことにしています。(中略)
そこで咄嵯に私は,『詩人は花を眺める時,その眺めている間にもその花が萎れて行くのを知っているがゆえに,その花を一層惜しみ,また美しいと感動するのである』というリンドのエッセイの一節から話を始めることに決めたのであります。そして,さらに「先ほど婦人会長さんは,皆さんのはちきれる若さを見て,花が咲いたように美しいと言われましたが,私は皆さんを見て,また別の感動を持つのであります。はっきり申しあげます。私は,皆さんが先ほどの婦人会長さんと同じく間違いなくおばあさんになることを知っているがゆえにより一層皆さんを美しく思うのであります」と言ったのであります。
そうすると会場からいっせいにどよめきが起こりました。そして私は1時間半の講演を無事に終えたのであります。
考えてみて下さい。一室に活けられた花が遠くから見ると生花に見えたとします。しかし,近くに寄って見て,それが造花であることを知ったら,あなたの心はどんなに冷え切ってしまうことでしょう。
では,なぜ私達は生花を造花より美しいと思うのでしょうか。それは,リンドの言っているように,実は無意識のうちに生花はやがて萎れてゆくのを知っているからであります。
私達は,永遠なるものを求めながら,永遠なるものを求め得ない中に生きている人間は,無理にも幸福を求めようとしているのかも知れません。花よ,美しく永遠であってくれという願いをいくら私達が抱こうとも,萎れてゆく運命,宿命をもって,それは今咲いているのです。生花に対する私達の感動の源泉は,実は,この萎れて行く運命,宿命であります。
「ちるさくら残るさくらもちるさくら」もし,春に咲く花が一年中咲いていたらどうでしょう。春といえば花,花といえば桜といわれますが,あの短い命ゆえに,私達は一層桜の花に美しさの感動を覚えるのであります。

(『現代に幸せを求めて』東北福祉大 萩野浩基)

資料3) 死への心の準備

死というのは,人間にとって,大きな,全体的な「別れ」なのではないか。そう考えたときに,私は,はじめて,死に対する考えかたが,わかったような気がした。
人間は,長い一生の間には,長く暮した土地,親しくなった人々と別れなければならない時が,かならず一度や二度はあるものである。もう,一生会うことはできないと思って,別れなければならないことがある。このような「別れ」,それは,常に,深い別離の悲しみを伴っている。しかし,いよいよ別れの時がきて,心をきめて,思いきって別れると,何かしら,ホッとした気持になることすらある。人生の,折にふれての,別れというのは,人間にとっては,そのようなものである。人間はそれに耐えてゆけるのである。
死というのは,このような別れの,大仕掛けの,徹底したものではないか。死んでゆく人間は,みんなに,すべてのものに,別れをつげなければならない。それは,たしかに,ひどく,悲しいことに違いない。しかし,よく考えてみると,死にのぞんでの別れは,それが全面的であるということ以外,本来


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