研究資料分類基準G2-04高等学校社会科「現代社会」の研究-148/170page
資料1) 欠けと人生欠けこそ生の証し
さて,われわれの日常生活は,完全を求めながら,欠けをならす営みであった。いま生きているという実感は,欠けによってはじめて得られる。欠けが魅力であるのは,そして,美人がほくろや八重歯によって,また顔をほころばせることによって,あるいは泣き,怒ることによって,生き生きとした魅力を表現するのは,それがわれわれのつりあいへの欲望をそそるからである。
欠けこそが,生きていることの証しとなる。食事をする。恋をする。すべて欠けを充足し,ならす生の営みである。欠けばならしを求める生の姿であるがゆえに,なまなましい美となる。この美は,民衆が人間としての権利を獲得したときに発見された。美醜の観念は,このときにまったく変った。
たとえばルオー(1871-1958年)の絵は,一見,まるでどろんこのようなものである。いわゆる美しい絵などでは,けっしてない。彼はカトリックのステンド=グラスの職人の子に生まれ,キリストやマリヤを描き,宗教画家といわれるが,同時に,道化や,犯罪者・売春婦を描いた。この人生的写実家の絵にはつねに無限感があって人を打つ。「あなたは,いつも満腹しているようなお方だ。」
というせりふは強烈な皮肉である。満ち足りた人間―それは一種腹立たしい。醜くすら感ぜられる存在である。熟睡・死・安定と同様に,そこには生命の感動がない。満たしたいと意欲するものがないからである。
欠けをならす永遠の営み
こうして生きることと,美の追求とは同じことであった。生も美の追求も,一つの欠けを満たしならしたあとには,また新しい欠けが現われる。絶えることのない欲求の連続である。生きるとは,永遠に欠けを追う人間の営みである。芸術の対象もまた無限の欠けである。そのゆえに,芸術家の前途は永遠に調和を求める無限軌道である。
(林武『美に生きる』講談社 現代新書)
(林武の作品)