平成5年度 研究紀要 Vol.23 -112/162page
で実施した方が良いか」という問いの答えである。
本来の賛否の立場の方が良いと考えているのは3分の2の生徒であり、3分の1の生徒は異なった立場でも良いとしていることに注目したい。
もっとも、本年1月の「まとめのアンケート調査」の中では、「自分本来の立場でディベートをやりたいか」という問いに、85.4%の生徒が肯定的に答えている。
その理由は、アンケートの前に実施した二つのディベートの単元における位置づけの相違によるところが大きいと思われる。「『裁判』形式のディベート」のテーマが、夏休みの課題研究としてある程度まで調べ、賛否両面から自分なりの感想を抱いていた論題であるのに対して、「単元の導入としてのディベート」のテーマは、ぷっつけ本番で実施したものである。そのような場合には、生徒は直観的に抱く賛否の立場以外に立ってディベートをすることは、ほとんど不可能であろう。
「導入ディベート」など、課題把握を目的にディベートをさせるような場合は、可能なかぎり、生徒本来の(直観的な)賛否の立場を尊重して実施した方が、よりスムーズに進行できるだろう。しかし、下調べの時間を十分に確保して行うディベート、単元のまとめとして行うディベートなどは、本来の賛否の立場を変えて行うことも、新しい知的経験とより広い視野を与えることができるものと考えられる。これは、生徒のディベートヘの習熟と関連することであるが、今後、生徒本来の賛否にとらわれないディベートをより積極的に行っていく必要があるのではないだろうか。
もう一つの問題は、「審査」ないし「票決」の問題である。
実践例やアンケート調査に見られるように、審査や優劣の決定を機械的に行わないことは、一つの見識であって、ディベートの内容や児童生徒の実態に見合った計画を立てることは大切なことであろう。
しかし、どのような場合であるにせよ、授業者は、「なぜ、票決をしないのか」を明確にしておく必要があるように思われる。特に、十分な準備の時間をとって実施するような場合、「票決」することが一つの大きな教育的機会であることを忘れてはならないように思う。
福島南高等学校の生徒たちの「まとめのアンケート調査」を見るまでもなく、児童生徒たちは責任を与えられた評価活動は、公正適切に行おうと努力する。相互評価の機会を与えることは、他者を見る眼を育てると同時に、自分自身をみつめる眼をも研ぎ澄ますのである。また、それで足りないところは教師が補うことができるであろう。
審査については、評価の観点を示せばある意味では十分であり、過重にならないように配慮したい。ともすれば、審査の生徒たちが綿密な「評価票」の記入に追われることになりがちなだけに、配慮が必要なことに思われる。ディベーターだけではなく、審査の生徒にも質問や意見表明の機会を与えることはもちろん、審査グループの討論の時間を確保するなど、参加感の高い充実したものでありたい。
「自分の考えの無意識の前提に気づく驚き」「新しい視点を発見する喜び」「論争の楽しみ」一ディベートは、児童生徒のみならず、教師にとっても新しい発見や視野を与えてくれる学習形態であると思われる。
註1)
1)「日本語大辞典」講談社、1989
2)「ディベートとは何か」 東京法令「教室ディペートハンドプック」 1993
3)「今、求められる『教科におけるディペート』のあり方」 片上宗二他 明治図書 「現代教育科学」1993, 11月号
4)須賀川第一小教諭「岩瀬地区小教研 授業研究発表要項」 平成5年11月
5)川俣中学校教諭 「平成5年県教育センター社会講座中学校経験者研修I」 講義資料
6)福島大学附属中教諭 「平成5年度学校公開のしおり」
7)福島東高校教諭 「平成4年度高等学校社会初任者研修講座」 公開授業資料
8)好間高校教諭 「平成4年度東日本地理歴史・公民科講習会」 福島県発表資料
9)「やさしいディペート入門」 中経出版1990
10)「朝日新聞」 平成5年5月29日
11)「知能の心理学」 J.Piaget 波多野完治他訳 みすず書房1960