福島県教育センター所報ふくしま No.94(H02/1990.2) -003/038page
る上で一考を要する問題であろう。
3.作文のカリキュラムづくり
国語科の指導にあたっては,その各領域を総合的調和的に配列した年問指導計画を作成することは当然であり,児童生徒の文章表現力を着実につけるためには,それにふさわしい作文指導のカリキュラムを特別に用意する必要がある。
かつて,「山びこ学校」に学び,上山市の教育委員をつとめたことがある佐藤藤三郎氏は,自分の体験について次のように述懐している。
思い出に深く残っているのは,中学2年生のとき,無着成恭先生に「学校はどのくらい金がかかるものか」という調査をして,そのまとめをかく勉強をさせてもらったことだ。/その時そんな調査のまとめをかく,などということはもちろん初めてのことだったし,そうしたたぐいの文章を読んだことさえない,というのが正直のところだった。/……1章についてはそのようにして口述を文章化したのだが,2章の村の予算と学校予算というのについては,ひとりでかけ,という命令にも似た指導だった。ほんのわずか,1回だけの口述筆記を体験しただけで無謀ともいえる指導だったが,「書けない」などではすまされない。厳しい指導だった。(「文学」第49巻第10号,1981年10月)
これはもちろん,カリキュラムなどが整う前のはなしであるが,指導者の頭のなかには一応の指導構想があったものと思われる。
この,構想を目にみえる形にして指導内容に系統性・発展性をもたせたものが作文のカリキュラムである。したがって,「読んで感想を書く」「手紙を書く」などという活動を月別に配当しただけでは系統ということにはならない。系統であるからには,そこに配列された指導内容を順次積み上げていけばひとつの文章表現力としての成果が保障されるものでなければならないはずである。
学習指導要領の場合,表現の指導事項は系統やがらない。むしろ,あまり詳しい案よりも中期的あるいは長期的な見通しがもてる略案をたて,子どもたちの作品研究を踏まえながら案の内容を実質化していくことのほうが重要である。試案を大いに出し合い検討を深めていくべきであろう。
さらにカリキュラムづくりで留意すべきは,自分たちの実践内容を批評的にとらえ返す姿勢を堅持するということであろう。このカリキュラム批評の観点は,「カリキュラムの実践過程における学習経験の診断と質的評価」を問うという意味で意義があり,「潜在的な価値や意味を発見し,批評する主体における認識の総合を促す方法」(佐藤学「カリキュラムを開発する」「岩波講座教育の方法』第3巻所収,P102〜103)でもあるといえる。この視点は作文の教材とカリキュラムの開発を進める上で必要不可欠のものである。
たとえば,「典型作文の研究」という形で各発達段階に見合ったひとまとまりの文章の作品研究を進め,実践内容をたえず確認することである。典型作文はあくまで実践の質を問うための仮の設定であり,たえず修正を加えていくことにしたい。要は,具体作品で裏づけながらより質の高いカリキュラム案づくりをどう追求していくかにかかっている。学年各段階相互の指導内容の内的関連の問題,系統案と子どもの表現事実とのズレ,それを埋めるための指導の手だてなどの課題はその過程で自ずと明らかになってこよう。
4.おわりに
これまで,作文教育はややもすると国語科という一教科のなかの文章表現指導という枠で狭く考えられる傾向にあり,形式的な言語技能の教育に陥りがちであった。しかし,今後は学校教育活動全体での位置づけを変える必要があるであろう。作文教育こそがひとりひとりの子どもの個性ともっとも確実に出会える場であり,表現の喜びの体験を通じて子どもたちひとりひとりに自己の尊厳を発見させ,自己の確立を促していくことができる。