福島県教育センター所報ふくしま No.100(H03/1991.8) -003/038page
いては「回帰教育」という表現が多く使われているとのことである。
臨教審答申が「生涯教育」といわずに、なぜ「生涯学習」としたのか。私は私なりに、つぎのように推考している。 その一つは「教育」というと他動詞なので、誰かが敷設した路線に沿って学ぶといった感じになりやすい。これに対し「学習」という場合には、自分が自発的に学ぶというニュアンスが強まる。
もう一つ、生涯教育というと、生涯にわたって教育をうけるといった負荷的な色合いが強くなるが、生涯学習という場合は”自分は生涯にわたって学習する天性を潜在態として有している”だから、人間らしく生きるために、生涯を通じての学習が必要であるし、そうした機会を得なければならない、といった、自分の主体性に立った考え方が出やすくなる。
臨教審答申も、「これからの学習は、 学校教育の基盤の上に 各人の自発的意思に基づき、必要に応じて、自己に適した手段・方法を自らの責任において自由に選択し、 生涯を通じて 行われるべきものである。
生涯学習体系への移行を目指し、従来の学校教育に偏っていた状況を改め、 人生の各段階の要請にこたえ 、新たな観点から、家庭、学校、地域など社会の各分野の広範な教育・学習の体制や機会を総合的に整備する必要がある。」としている。<傍点新谷>
ところで、「生涯学習の全体像」を描くに当たっては、つぎの点について考察してみなければならない。
〔I〕 公的制度的な面 これは国や地方自治体が、生涯学習に関する環境の整備・施設の充実・要員の確保・カリキュラムの策定・教材の具備・学習成果の評価などを行うことを指す。
そして、この面における生涯学習は、
1.通例として「集合教育」の形態をとることが多くなる。
2.教える者と教えられる者との関係が生じやすく、”やらされる”という色合いが濃くなりがちである。
3.受講者の”目標の共有”が前提となり、到達基準が示されることとなる。
4.単位の取得・資格の付与・技能検定などが伴う場合は判定が必要となる。
このような「公的制度的」生涯学習は、必要なことで、 誰もが、いつでも、どこででも 、学ぶことができるように、国や地方自治体は、教場の確保・講師の選定・講座の多様化・受講時間の柔軟化・テキストの開発・学習成果の評価などに関し、常に力を注ぎ、その改善に努める必要がある。
〔II〕個的自己実現的な面 これは、個々の人々が、たった一度の人生を、より人間らしく、より充実した生き方を目指して、自分自身で、”自分を耕す”という志と抱き学び続けることを指す。
この面での生涯学習は、
1.個々人が各々に自己の生涯を充足し全うするために学ぶことが目標となる。
2.自己の意思によって自らが自発的に”やる”という色合いが強く出る。
3.自己の生き方(自己像の形成)と深