福島県教育センター所報ふくしま No.104(H04/1992.8) -003/038page

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(財)CECの教育用語検討分科会がまとめ、CEC監修という形で出版したコンピュータ教育事典(アスキー出版)では、学習指導場面でのコンピュータ利用を形態的にとらえて、次の3つに大別している。
(1)提示・演示での利用
(2)学習用ツールとしての利用
(3)コースウェアによる利用
(1)〜(3)にさらに細かい分類ができると思われる。(3)だけが主な研究となっていた1970年代のことを考えると大きな変化を感じる。
 これらの利用のうち、(2)はコンテントフリーソフトや教科専用ツールなどの市販ツールソフトが利用されることになろう。自作するものは(1)と(3)が中心になる。


2.自作ソフトと市販ソフトの共存

言うまでもなく、学習指導で利用されるソフトウェアには市販されているものと教育関係者が自作したソフトウェアがある。どちらが望ましいかの論議がよく行われており、教育関係者が自作する時間がないという理由、技術的な専門家でないという理由などから、教育関係者が自作すべきでないという結論を導こうとする考え方がある。市販ソフト派である。一方で、専門的な技術をもったソフトハウスのような開発部門には教育専門家がいないので、本格的に教育で利用できるソフトは少ない。やはりソフトウェアは教育の専門家である教師が作るべきであるという考え方がある。これは自作ソフト派である。
 しかし、どちらも極端な考え方であって、望ましいアプローチとは思えない。一方に×をつけながら、もう一方に○をつける考え方はやめたい。自作ソフトと市販ソフトのどちらも必要であるが、それは双方の良い部分をとれば良いというのではない。自作では到底できない市販ソフトの世界が存在するということであり、反面、そんなに市販ソフトが充実しても市販されることの無い自作ソフトの世界が存在するということである。
 市販ソフトは日本全国どこでも売れるソフトである。言いかえるならば、地域の特殊性、教師の考え方の個性を極力排除したソフトになる。それだけで教授学習活動が成り立たないのは、全国版である教科書や参考書だけで自分の納得できる授業にならないことを考えれば容易に理解できる。自作ソフトはその場の状況に合わせてちょっと自作するプリント教材のような位置づけのものが望ましい。どちらも無くてはならない存在であり、それぞれに不可侵の世界があると思う。
 まだソフトを自作できる人は限られている。学校では「パソコンのことならあの人」と言われるような人が行う自作は、ソフトハウスの人が技術面でびっくりする様なソフトを目指すべきではない。「あんなにできる人が夜も寝ないでソフトを作らないとできないのか」という形では、それがどんなに良いソフトでも、コンピュータ経験の無い人の拒否反応をあおるばかりである。むしろ。同僚の教師が「自分でも作成でき


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