福島県教育センター所報ふくしま No.113(H07/1995.2) -005/038page
る種の論争が生まれてもいた。
私の見た授業は,歴史分野「宗教改革とルター」の単元のものであったが,その授業テーマは「聖書か免罪符か」と生徒たちに提示されていた。
この単元の教科書教材(「宗教改革」)では,約一頁にわたって「カトリック教会の教えに反対する人」として,「ドイツのルター」「フランスのカルビン」について述ベつつ,そのような動きを「宗教改革」であるとおさえ,さらにカトリック側での動きとしての「イエズス会」についても述べられている。
問題となったことは,教材の「裾野」と「核心」をとらえたこの教師が「聖書か免罪符か」という討論授業によって,あたかも生徒たちに「自由放任」的な授業をすすめることに対して「基礎・基本」を軽視しているのではないかという点であった。
しかし,この授業においても「資料1免罪符を買いなさい」「資料2ルターの抗議文」という基本的資料にまで「裾野」を広げるだけでなく,教科書・資料集・参考書をふまえての「基礎基本」の「問題」が八つブリントされ,その点への目配りもなされていた。
単にこの教師の「動く授業」の提起のみならず,実際の授業の全体的流れを見てみると,あたかも「自由放任」的な授業においても,このような「基本的資料」への目配りとともに,「基礎基本」ともいえる知識の理解がていねいになされていることが発見できた。
このような例からもうかがえるように,子どもの「関心・意欲」を育てる授業といえども,必ずしも「基礎基本」をないがしろにするものではなく,むしろ教材の「裾野」や「核心」への目を待つような授業においては,必然的に「基礎基本」が位置づけられていくのだと思う。
さて確かな学力の育成とは,言うまでもなく「基礎基本」の習得をその中に含むものであるが,問題はその「基礎基本」をどのようにして育成しうるのかという点にある。「基礎基本」がバラバラに教科書・教材の中に羅列されているのではないし,単なる単語や記号の要素表でもない。
したがって,確かな学力の育成においての「基礎基本」の習得というものは,「基礎基本」をバラバラにとらえたり,単語や記号の要素表としてとらえないような,新しい「基礎基本」の構造的・立体的なとらえ方を確立することなしには,十分になされえないということになる。
ところで「基礎基本」の構造的・立体的なとらえ方は,今まで述べてきた教材の「裾野」と「核心」をとらえることと密接な関連がある。
つまりこの「基礎基本」の習得は,教材の「裾野」と「核心」をとらえることと密接不可分な関係にあり,その理由は教材の「裾野」と「核心」をとらえることによってこそ「基礎基本」の構造的立体的なとらえ方がなしうるからである。
上記の中学校社会科の授業において教材の「裾野」と「核心」がとらえられていた