福島県教育センター所報ふくしま No.113(H07/1995.2) -010/038page
く発展・変容させることができる。
授業論に「授業は5の力を持っている子どもに5の力を出させることではない。子どもと子ども,子どもと教師がぶつかり合いによって8や10の力をつくりだしていくものだ」という論がある。文学教材の読みが感動を体験する読みであるとすれば,言葉の吟味によって「見える世界」を構想しそれを具現していく努力を欠いてはならないだろう。「見える世界」の具現への努力が8や10の力を創り出すことなのだから。
さて,先の教材追究の軌跡を板書によって示すが,この教材の学習後,一人の子が三好達治を解説した書を手にし,新たな感動を味わっていることも付記しておこう。自分たちの直観力と読み取りの正しかったことを知ったという事実を。
2.「授業」が「授業」になる
「授業が授業にならない」とはどういう場合を言うのであろうか。
教師が教材を理解していなかったり,あるいは,教師の教材解釈が主観的・恣意的であったりしたらどうだろうか。一方,子どもの自主性を専重するといって,教師は何もしないでただ腕組みをして見ているだけというのはどうだろうか。さらには,教師の独断やおしつけはどうだろうか。
授業は「教師の教育的力量できまる」と言われる。この力量を狭義に解釈すれば,「授業を組織する力」と「子どもの思考を追跡する力」が考えられる。思考の追跡とは,子どもの当初の考えが追究でどう深まったか,つまり,見方,考え方,感じ方がどう発展,変容したかを追うことである。
授業が授業になるためには,授業を組織する力と,子どもの思考を追跡する力がはたらくようでなければならないだろう。
そうした力を発揮するいちばんのもととなるのは何であろうか。言うまでもなく,それは教材研究ということになるだろう。
教材研究は素材研究から始まる。そこに教材があるから,子どもに読ませるではないはずである。素材を教材として「ぜひ子どもに読ませたい」という教師の熱い思いがみなぎるようになるとき,素材は教材としての価値を持つことになる。そして,さらにその教材を子どもが「ぜひ読みたい」と思うようになるとき,教材は子どもにとって血のかよった「学習材」となっていくのである。
深い教材解釈,研究が行われていれば,教師の「ぜひ読ませたい」という思いと,子どもの「ぜひ読みたい」という思いとがやがて呼応するようになる。すなわち,教師の学ばせたいものが,子どもの学びたいものへと転化されていくということである。ここにおいて,教師の授業を組織する柔軟な力と,思考を追跡する力とが真に生きてはたらくようになるのである。