福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.118(H08/1996.7) -002/042page

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特集 授業改善のための校内研修

明珍昭次氏写真

研 修−その論理、技法、モラル









東日本国際大学   明 珍 昭 次



 本年5月30日、文部省の「教員の長期派遣 研修に関する調査研究協力者会議」は、中間ま とめを公表した。このまとめは、「教員の大多 数は学校制度の中で教育を受けたあと、学校以 外の社会で経験を積むことなく子どもに教えて いく」事実を問題点として指摘する。そのうえ で、教員の視野を広げるため、学校外の民間企 業や社会福祉施設などで1ケ月ないし1年の長 期社会体験研修を積み、その研修成果を学校教 育に還元すべきだ、と提言している。

 研修は、辞書的には「学問や技芸をみがきお さめる現職教育」と定義される。この研修は、 校内研修から始まって、地域単位のものから県 レベル、全国規模のものまである。さらに、海 外研修まで用意されている。そしてまた、研修 内容は、教科授業、学級・学校経営、児童・生 徒の生活指導など、さまざまのジャンルのもの がある。上記中間まとめは、研修のジャンルを さらに広げ多様化しようとしている。学校の教 師には、他のいかなる職業にもまして研修の綱 がかぶせられている。

 一方、学校現場における教師の仕事量は極め て過重である。勤務時間内に教材研究をすませ ることができず、研究が家庭に持ち込まれるこ ともしばしば。超過勤務の中での校内研修は形 骸化し空洞化せざるを得ない、という内部告発 も相次いでいる。行政サイドがこのような現実 から教師を開放する努力は、今や不可避かつ喫 緊のものとなっている。

 とはいえ、教師の研修そのものの存在理由は、 厳としてゆるぎないものである。ここにあらた めて、教職研修の論理・技法・モラルについて 考えておきたい。

 1 研修の論理(なぜ研修なのか)

 人間は、自分の意思次第でこれにもなれるし あれにもなれる、こうもできるしああもやれる、 といった存在可能性を生きている。人間の前に は、同じ状況のもとでも、選択可能な幾つかの 行動のコースがある。人間は、そのようなコー スの1つを自分の意思で選択し行動する。人間 の自由とは、このような異なった行動の選択可 能性、選択の主体的任意性のことである。行動 の幾つかの可能性の中から1つを選択すること によって、その人間の存在の仕方が決まる。教 師は誰しもが、自分の自由な意思にもとづいて 自分の在り方・生き方を選択した。大学を卒業 するとき、教師だけが唯一の生きる道であった わけではない。選択肢は幾つかあったけれども、 教職が選択されたのだ。いま自分が教師である こと―――――この事実は、子どもと共に生き、未 来を担う子どもを育てることにおのれの生命を かける、という人間の在り方・生き方を自分の 意思で選択した結果にほかならない。これは、 厳粛な選択である。「大人社会ではうまく生き ていく自信はないが、子ども相手なら何とか」 といった不謹慎な選択ではない。裁判官や検事


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