福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.137(H14/2002.11)-003/036page
● 子供のころを思い出すと
昭和17年生まれの私が、子供時代をふり返っても大した普遍性はないのですが、つくづくよき時代であったと感謝しています。終戦のドサクサがまだ色濃く残っているころ、小学校に入り、学校はもちろん「ご町内」もわくわくドキドキの毎日でした。
私は、小学4年生で父の転勤により郡山の金透小から福島の附属小へと転校するのでしたが、この転校などは大ニュースで、学校はともかく燧田という町から離れることは私にとって生きては行けない程の心をいためたできごとでした。今でも郡山駅で仲よしの友だちがいつまでもいつまでも手をふってくれていた別れの日を夢に見る位です。転校先の附属小というところがこれまたへんに気取っていて、郡山の下町になじんでいた私には、ちょっと気にくわないものがありました。うちに帰って、そんな感想をもらしたら、いきなり父にがつんとなぐられて、どんな学校だろうが、気にくおうとくわなかろうとおまえは勉強すればいいんだと怒鳴られてしまいました。(ここまで書いてきて気がついたのですが、私は父に似ています)
勉強はけっこう好きな方だったと思います。知らなかったことがわかるようになる、これが自分にも痛快でしたし、何より読書が好きでしたので、手当り次第本を読みました。
私が小中を通じていちばん嫌いだったのは音楽の時間です。バイエルをやらされるのもへきえきしましたが、何よりいやだったのは、クラシックのレコードを聞かされて、先生がいきなり手を打って、はいこれが第二楽章と叫ぶことでした。ヨハン・シュトラウスのワルツをきいた後で、「氷の上を優雅にすべってゆく水鳥を思い浮べました」などと感想を言わされるのも地獄でしたね。私はなにしろきれえだなと思ってすぐ眠くなるタイプでしたから。水鳥なんか1羽も思い浮ばないのですから。
今になってみると、大嫌いだった音楽の時間が私の体のどこかに残っていて、この曲は余り和音がスムーズでないな、などと知った風な批評をして我ながらギョッとします。嫌いでも何でも音楽のべースを詰めこんでいただいていてよかったなと、思ったりもします。
● ありがとう。煙草屋の婆ちゃん。
私が子供時代ですぐ思い出すのは学校ではなく、実は角の煙草屋の婆さんです。婆さんといいましたが、きっと50位だったと思いますね。60歳になんかなっていなかったと思います。当時5年生位の私には、縄文時代から生きてきたように感じていましたが。
この婆さんのこわかったこと。日がな一日、煙草屋の奥に陣どり、往来をにらみつけています。店番をしているのかと言えば、私たち子供の見張り番をしていたのですよ。私たちのわんぱくの度がすぎると、婆さんとは思えないスピードで飛んできて、私たちをぽかすかなぐるのです。私は女だてらにガキ大将だったので常に目の敵にされ、ちょっと誰かを泣かせると、このガキ!と一発。女のくせに!もう一発。何とか婆さんの目を盗んで思うさま悪さをしてみたいというのが当時の私の野望でありました。
元気すぎるほど元気な私だって今イチ調子が出ない日もあります。病気という程ではないんだけど、何となく愚図っている。こういう日は全く面白くないのですが、悪ふざけもしないから、煙草屋の婆さんを恐れることもない。まあ唯一のメリットですね。ふだんは煙草ケースの下をはって歩いたりして、婆さんの目に入らな