福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.137(H14/2002.11)-004/036page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

いように往来しなければならないのです。

ところがそんなある日、私がゆうゆうと煙草屋の前を歩いていたら、いきなり婆さんが出てきて「クミコ、このぉ!」とげんこ一発です。私は今日は何もしてないと必死の抗議をしました。調子が悪くて遊ぶ元気もない私です。

すると婆さんは言うのでした。「私は明日法事で浜の親せきに行くんだ。明日の分だ!」まったく何ということでしょう。しかし、明日も何もしないと、きっぱり言い切れない弱味もあります。しようがないかと納得したりする私なのでありました。

私の子供時代はそんな風でありました。学校で学んだことも、無理矢理知識として詰めこまれたこともいっぱいありましたが、煙草屋の婆さんが教えてくれたことも、たくさんありました。嘘をつくな。小さな者、弱い者にはやさしくしろ。盗むな。人を泣かせるな。ずるいことをするな。できるだけ親切にしろ。ぐずぐずするな。あいさつ位しろ。パキパキ答えろ。私の動作を仕込んでくれた人は、煙草屋の婆さんでもありました。親も学校もご町内も団子になって子供を育てていたんだなとつくづく身にしみています。教育の原理も、メソッドも、ノウハウもマニュアルも何もかもなく、正しくたってまちがっていたって、大人が大人としてりんとして私たちを仕込んでくれていたのです。

 

● 高尚で勇気ある生きざま

そこで本題の「ゆとり教育」でありますが、私が声を大にして叫びたいのは、教育とは手法や時間、あるいは空間などではないということです。ひょっとしたら、正しいとかまちがっているということでさえないのかもしれない。

それが学問であれ、知識であれ、よしんばルールやマナーであったとしても、これを後から来る者にどうしても伝えたい何かがあるとすれば、りんとして伝える、大人が大人としてびくびくせずに、しっかりと骨太に伝えてゆく、これしかないと思うのです。その結果、ゆとりある心の大らかな人間ができあがれば万万歳でありまして、それは結果でしかないのです。

ゆとり教育なんていって、小手先のことでウロウロするより、先生は先生として、親は親として、隣の大人は大人として、びくともせず堂々と向かいあってゆくこと、これこそ教育の原点ではないかと私は申し上げたい。

この妙に生ぬるい猫なで声的状況を一日も早く脱却して、どんなに小さなことであれ、ひとつの道を生き抜いてゆく先達として、自信をもって道を示してやること、ITのインターネットのと言ったって、けっきょくは人と人のぬくもりの中でしか真実は手渡されてはいかないのだと私は思います。

どうも世の中が妙なことになってきていると私は日本が心配です。学校の先生も、親たちも町内の大人たちも、見えない規範のようなものにしばられて、モノごとの本筋を見失っているような気がしてなりません。もちろん私もその一人でありますが。そうした世迷い言の最たるものが「ゆとり教育」ではないでしょうか。見えない規範など、どうでもよろしい。それぞれがそれぞれの人間らしさに向かって主張してゆくだけでよいのです。「どんな人間でもこれだけは伝えることができる」と、内村鑑三は言っています。「それは高尚で勇気ある生きざま。これだけはどんな人間でも後世の者に伝えられる。」

21世紀に入って4年目となるいま、もういちどこの言葉をかみしめたいと思います。


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は福島県教育センターに帰属します。
福島県教育センターの許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。