福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.137(H14/2002.11)-035/036page
― 「人・道・歩み」 〜この道一筋〜 ―
二本松市にお住まいの「国の名工」
山 岡 六 郎 氏 に聞く
今回は、障子戸などの建具や箪笥や衝立などの家具類の製作を、70数年にわたり一筋に歩んでこられ、国の名工(昭和62年労働大臣卓越技能賞受賞)となられている87才の建具師、山岡六郎氏にお話を伺いました。
建具師になられたきっかけは………
………私は大正4年の生まれです。小学生のころ、画家か彫刻家になるのが夢で、次の希望が大工(建具師)になることでした。絵を描くことや物を作ることが大好きで、そのことだったら誰にも負けないという自信がありましたが、当時の校長先生から「画家や彫刻家になるのには東京の学校に行かなければ。」と伺い、考えた末、建具師の道に進むことといたしました。
杉田尋常高等小学校高等科を卒業(15才)するとすぐに、私は本宮町の建具の師匠の家に住み込み徒弟制度の中で見習いとして師匠に厳しく鍛えられました。
見習いのころの思いは………
………仕事も師匠も大変厳しいものでした。
朝早くから夜遅くまで、師匠が「今日は終わりだ。」というまで仕事は続けられました。道具の研ぎ方が悪ければ一からやり直し、作品(製品)の出来が悪ければ外に投げ捨てられてやり直しというふうに、それは厳しく辛いものでした。しかし、他の職場の建具師と一緒に仕事をする機会があった時、私は、師匠のそれまでの厳しさをとても有難く感じ、感謝の念に包まれたものでした。というのも私自身の腕、技能の確かさを強く実感できたからです。そして師匠は、折を見て、私を絵画や彫刻などの鑑賞会に連れて行ってくれ、私の「物を見る目」「物を作る目」を大いに育ててくれました。本当に勉強になったと思います。見習いの期間は8年間でしたが、その間、私を支えていたのは「いつか自分も一人前となり独立したい」という一念であったと思います。
独立してからの歩みは………
………実家の裏にある小屋で独立し仕事を始めたのですが、最初は仕事がなくて困ったものでした。しかし、地元の旅館での仕事が認められてからというもの、順調に伸びていくことができました。
悲しいこともありました。初めての息子が、4才の時、亡くなってしまったのです。私は打ちのめされ、失意のどん底に追い落とされ、仕事に取り組む気力も萎え失せてしまったのはいうまでもありません。そんな時、私を奮い立たせてくれたのが「自分を弟子にしてほしい。」と訪れた若者の姿でした。私は、亡くなった息子との年の差はあれ、その若者を息子の代わりだと思って教えていこうと決意し立ち上がることができたのです。それ以来、私は多くの弟子をかかえることとなりました。忘れられない仕事としてはどれも忘れられないものばかりですが、なかでも二本松の霞ケ城の「箕輪門」造りが強く心に残っています。会津の鶴ケ城はじめ愛知の名古屋城、九州の熊本城などを実際に見て回り、私は、「よし箕輪門は俺が造る」という決意と自信を深め、その仕事に打ち込むことの喜びを味わうことができました。
また、20年程考え続けていた家具の組み立て方法を自分で解明し、その手法で作品を完成しあげた時も大きな喜びに包まれたものでした。
見習い時代に見た難解な家具の組み立て手法を、しかも誰も分からなかった手法を、自らの力で解明し製作することができたのですから、その喜びは、言葉で言い尽くすことはできないといえましょう。それにしても、これほどの家具組み立ての手法を考え出した先人の偉大さを強く感ぜずにはいられません。地元出身の彫刻家橋本高昇先生、その息子さんで同じ彫刻家である橋本堅太郎先生との出会いも、私の作品製作へ影響を与えるものとなりました。両先生の作品の見方、考え方についてのお話をお聞きするなかで、私は、私自身をさらに磨き、深め、高めることができました。
最後に一言………
………蛙の子は蛙なのでしょうか、私の仕事を自然に次の息子が継いでくれています。私の仕事に対し息子から批評を受ける時がありますが、それは正直嬉しいものですよ。さて、今、一番思うことは、手作りのこつこつと仕上げていく伝統的な技を残したい、伝統的なものを消したくないということですね。手作りのよさの持つ「伝統の灯」をいつまでも灯し続けたいと心より願っています。