福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.138(H15/2003.2)-002/036page
ち果てる。自分の肉体も、そのひとつでしょう。そして、嘆き悲しむのです。
結局人生においての真の幸福感は、可変性の人類が造り出した目に見える物達の中には見い出せないということではないでしょうか。永遠に朽ち果てないもの、永遠に色あせないもの、つまりは真の幸福感は、不変性の中にある精神が満たされている時にこそ堪能できるものではないでしょうか。言い変えれば、心を豊かに充足させてゆく事こそ、真の幸福への道と言えるのではないでしょうか。
では、その心を豊かに充足させてゆくためには…。
○ 父との想い出
僕の父は50歳を前に、この世を去りました。父の最後は、いわき市の湯本町にあった常磐湯本病院の事務長でした。小学校までしか出ていなかった父でしたが、とても頭がよく、多くの人に「鉄ちゃん、鉄ちゃん。」と慕われていたのを、子供ながらに覚えています。お酒が好きな人で、今生きていたなら、一緒に人生なんか摘みに美味しい酒が飲めただろうなと、つくづく思わない日はありません。
そんな父の姿や言葉から、僕は限りなく色々なものを学びました。
僕がまだ小学校の低学年の頃、僕との約束を破ったおじさんが、同じ長屋にいました。父は自分と同じくらいの年であるそのおじさんを捕まえて、「子供に平気で嘘をつくとは何事か。」と、多くの人のいる前であるにもかかわらず、烈火のごとく怒鳴ったのでした。後で、何であんなに怒鳴ったのか聞いたところ、「大人が子供に信用されなくなったら、おしまいだものね。」と、静かに言っていました。自分だけは、子供に信用される大人でありたいと、精一杯戦っていたのかもしれません。
又、僕は父とよくお風呂に入りました。その頃住んでいたのは、炭坑長屋と呼ばれる住宅でしたから、もちろん内風呂なんてありません。病院の中にあった職員風呂に、二人で行ったのです。その時父から教わった唯一の歌が、『同期の桜』でした。いつも何かと言えば、二人で口遊んでいたように思います。そんな小学5年生の頃だったと思います。たまたま入ったお風呂が、その日に限ってぬるかったのです。父は沸かし直しをしてくれたのですが、僕は早く温まりたいばかりにそのお湯を自分の方へ自分の方へと、精一杯両手で招いていました。するとそれを見ていた父が僕に、「お湯を自分の方に招かずに、自分から遠くに追いやってごらん。」と言うのです。自分の方に招いていた時より、壁に当たった温かなお湯は、はるかに多く自分に返ってきました。面白がっている僕に父は、「人の恩も同じようなものだよね。」と、眩いたのです。その時は何のことだかよくわかりませんでしたが、後々つくづくこの事だったのかと思うことに、幾度出会ったことでしょう。
僕は中学生になると、その当時流行でもあったソロバン塾に通いました。その頃の僕は、今で言う先輩からの『いじめ』を受けていました。中学時代は僕にとって、恐怖でしかなかったような気がします。いじめる柔道部の先輩やハンドボール部の先輩達を、放課後逃げのびながら、いつも心の中で軽蔑していました。そして、今に見ていろ、今に見ていろと、遠い空に叫んでいました。実はその中の先輩が、何人かそのソロバン塾にいたのです。おのずと塾への足は遠のき、山学校が始まりました。両親への後ろめたさと、やりたくないものをやらなくていい気楽さが、交差する毎日が続いたような気がします。暴力の恐怖から一時は逃れられた僕でしたが、家族を裏切っている遣る瀬無さが、それ以上の恐怖となって僕を襲いました。当然そんな偽り事は、長くは続きませんでした。そのうち、父に見つかるはめとなりました。思い切り殴ら